コラム


「自句自櫂(じくじかい)」は、解読不能な、あるいは難解と思われる季語や句作について
資料を基に私らしく解釈してみたり、詩情たっぷり?に解説してみたりと、いろいろな表現方法で
説明を試みよう(却って判らなくなる?)とするページです。

<記事欄>

【目次】

2011年10月31日 (土) けみ【毛見・検見】 〔季題解説〕

2011年10月29日 (土) いなおほせどり【稲負鳥】 〔季題解説〕

2011年10月29日 (土) たかのとやで【鷹の塒出】 〔季題解説〕

2011年10月22日 (土) ままこのしりぬぐい【継子の尻拭】 〔季題解説〕

2011年10月21日 (金) ばいまはし【貝回し・海蠃回し】 〔季題解説〕

2011年10月21日 (金) ひづちだ【穭田】 〔季題解説〕

2011年10月21日 (金) 二十四節気七十二候 〔季題関連解説〕

2011年10月21日 (金) ぐんちょうしゅうをやしなへり【羣鳥羞を養へり】 〔季題解説〕

2011年10月14日 (金) のちのふつかぎゅう【後の二日灸】 〔季題解説〕

2011年10月10日 (月) せいもんばらい【誓文祓】 〔季題解説〕

2011年10月8日 (土) よばいぼし【夜這星】 〔季題解説〕

2011年10月6日 (木) とんぶり 〔季題解説〕

2011年10月4日 (火) かまぶたついたち【釜蓋朔日】 〔季題解説〕

2011年10月3日 (月) かみなりこえをおさむ【雷声を収む】 〔季題解説〕

2011年10月3日 (月) おおかみけものをまつる【豺獣を祭る】 〔季題解説〕

2011年10月3日 (月) すずめはまぐりとなる【雀蛤となる】 〔季題解説〕

2011年9月26日 (月) はさ【稲架】 〔季題解説〕

2011年9月25日 (日) りゅうふちにひそむ【龍淵に潜む】 〔季題解説〕

2011年9月25日 (日) きちこう【桔梗】 〔季題解説と本能寺の変〕 

2011年9月25日 (日) われから【割殻】 〔季題解説と創作〕


目こぼしに株も上がるや毛見の人                    (31oct2011)


〔季題について〕


けみ【毛見・検見】

傍題: 検見 検見の衆 毛見の日 毛見果(けみはて) 毛見の賂い 坪刈

 室町時代後期から行われた徴税法の一つ。旧暦の八月の収穫期が近づくと、幕府(藩主)の命を受け、下回りとしての格付けを与えられた(一本差しの帯刀を赦された)地役人(村役人)が徴税地の田に出張して作柄を実地検分して年貢の料率や分量(年貢高)を定めた制度・手法のことです。「検見衆(けみしゅう)」とはこの検査を行う役人の実検グループを言います。 「毛」は「実り」を表す語。したがって「毛見」で「実りを見る・検査する」の意で使われました。「毛見果」は毛見の結果の徴税率や年貢高が決まることです。これに農民たちは一喜一憂したそうです(字義の通り、地役人への贈賄、接待や金品を要求する収賄など不正・腐敗が進んだようです)。検見の検査が厳しいと、もちろん年貢を多く徴収されてしまいます。したがって農民たちは「毛見の賂い(けみのまかない)」を行って、毛見衆の接待をして実際の米の収量に目こぼしをしてもらうように働きかけたといわれています。「坪刈(つぼかり)」は、稲田の任意?の一坪を選定してその面積内の収量を計量する、今でいうと「抜き打ちサンプル検査」のことです。

 江戸時代の寛永年間にこの制度・手法ともほぼ確立されたと言われています。太閤検地など、鎌倉時代から戦国時代に至るまで領主は、米の徴収に田の検地を行なって収税してきました。江戸前期まではこうして行われた検地による田の地位(ちぐらい)、石盛(一反当たりの収量)に基づいて米を徴収していましたが、後、実際の収穫高に基づいて徴収する「有毛検見取法」という方式が用いらることが多かったようです。貨幣経済が発達して、米の現物徴税が行われなくなってから(明治時代以降)は撤廃されました。

写真掲載元:
「伊豆・韮山の江川邸(旧・代官屋敷<国指定重要文化財>)」
AQUA-PLANETCLUB/アクアプラネットクラブのブログページより

先人の句のご紹介:

毛見の衆の舟さし下ダせ最上川 蕪村
駒とめて何事問ふぞ毛見の人 正岡子規

[ めこぼしに かぶもあがるや けみのひと ]

[池内孝]

このページのトップへ戻る


実を落とす稲負鳥や共涙                    (29oct2011)


〔季題について〕


いなおほせどり【稲負鳥】

傍題: 読みを「いなおせどり」とも

 歌学の世界では『古今和歌集』の中の難解語句(問題点)は「古今伝授」という排他的に解釈を相伝する方法で現代まで
伝えられてきました。その中に「三木三鳥」と呼ばれる植物や鳥が含まれています。稲負鳥は、この「三木三鳥」の「三鳥
(呼子鳥、百千鳥、稲負鳥)」の一つです。

 この稲負鳥は、水鶏(くいな)、入内雀(にゅうないじゃく)、鶺鴒(せきれい)、鷭(ばん)、雁などの別称という説、また、字義
上、稲を負うのだから馬を言うだとか、うんにゃ、農夫のことだ、などという説もあります。『新撰万葉集』は稲負鳥の字を当て
ています。稲刈を課す鳥の意ではないかといわれています。秋になると田に現われる鳥という以外不明となっております。
『俊頼髄脳』『僻案抄』などに庭叩(セキレイ)ではないか、とする説が見えるようです。また『僻案抄』によれば、安藝国では
庭叩が来て啼くころ、田から稲を負って家々に運ぶのでこの鳥を「稲負鳥」と呼ぶのだそうです。

 いずれにしろ、この鳥(結局は何の鳥なのかは相伝された者しかわからない、ということになっている)を見かけたら、人々
は稲を負って働く季節がやってきたのであると感じるという具体を無視した概念(何だかわからないけれど、秋のテーマとし
て用いようではないか、昔からそうなのだからね、ねっ)で詠まれ、内容としても空想に拠って詠まれたものがあるようです。
私は歌学は門外漢ですが、歌を見つけたので掲げておきます。

わが門にいなおほせ鳥の鳴くなへに今朝吹く風に雁は来にけり (古今集208) 〔門=かど〕

写真掲載元:
文化庁 文化遺産オンライン「松鷹図」(雪村筆)より

先人の句のご紹介:

瓦屋は稲負鳥のねぐらかな 三千風

[ かざきりの はおとしるけし とやでたか ]

[池内孝]

このページのトップへ戻る


風切の羽音著けし塒出鷹                    (29oct2011)


〔季題について〕


たかのとやで【鷹の塒出】

傍題: 塒出の鷹 初鷹 鳥屋勝(とやまさり) 両鳥屋(もろとや)

 「塒」は「鳥屋」と同じで、鳥小屋の意味で使います。「塒出」とは
「鳥屋出し」と同じで、夏の末頃、鷹は羽替えのために「鳥屋籠り
(鳥屋入り)」をしますが、その鷹の羽翼が生えそろい鳥小屋から
出てくることを言います。

 さて鷹狩りは古墳時代の埴輪などのモチーフになるなど日本の
古来からの狩猟方法です。それ以後、鷹匠などにより飼育され、
また武士の狩猟法として尊ばれて来ました。明治以後は古武道、
剣術などと同様衰退の一途を辿りましたが、絶えることなく現在
まで受け継がれ、伝承されています。

 現在では鷹を含む野鳥を飼育する場合は、特別な許可が必要
で(以下Wikipediaより抜粋:「2011年現在は鳥獣保護法で規定
されたメジロのみが都道府県知事の許可を受けた場合、1世帯
1羽までの捕獲、飼育が認められているが、実際には自然保護の
観点から条例でメジロの捕獲、飼育を禁じている自治体も多く、
環境省も2012年4月から愛玩目的での国産野鳥の捕獲、飼育を
全面的に禁止する予定である。」)、当然、鷹狩りの鷹についても
同様の法律や条例が適用されています(Wikipediaより抜粋:「日
本国内においては、動物愛護管理法によりタカ目の一部が特定動物に指定されている。飼育を行なうにあたっては各
都道府県の動物愛護担当部局からの許可が必要となる。」 )なお、鷹匠(たかじょう)の飼育している鷹は国産のものは
入手・飼育することはできず、入手可能な個体は外国産に限られ、個体を輸入して飼育している例が多いそうです。

 さて、鳥は仲夏から晩夏にかけて夏羽から冬羽に抜け替わります(この時季を「羽替え」と言い、この期間の羽が抜けて
整わない姿の鳥を「羽抜鳥」と呼びます)。鷹も同様に羽替えのある夏に鳥小屋(鳥屋=塒)に放して羽や翼を生え替えさ
せます。もちろんその間は飛翔力が落ちますが、秋には羽根が完全に生え替わります。羽替えをする間鳥小屋に入れて
飼育することを「塒〔とや〕をする」と言います。秋になって羽替えが終わって、飛翔力が上がると、鷹匠は鷹を訓練して、
冬の期間、「鷹狩」に用います。

 「箸鷹」はわしたか科の小形の鳥の「はしたか」を言う場合もあり、また「盆の精霊の箸を焼いた火で、夜、鳥屋から出す」
行事のことを言う場合もあるようです。「初鷹」は羽替わりして鳥小屋に出て来たばかりの鷹のことを言います。瑞々しく
羽翼が生えそろった初鷹は生気が強く、勢いがあるので「鳥屋勝」と言います。「片鳥屋」は初めて羽替えをした鷹を、
「両〔もろ〕鳥屋」は二年目のものを言います。

写真掲載元:
文化庁 文化遺産オンライン「松鷹図」(雪村筆)より

先人の句のご紹介:

鷹の眼の塒より出る光かな 苔蘇
この鷹や君の覚えも鳥屋勝 高浜虚子

[ かざきりの はおとしるけし とやでたか ]

[池内孝]

このページのトップへ戻る


引き寄さば抗す継子の尻拭                    (22oct2011)


〔季題について〕


ままこのしりぬぐひ【継子の尻拭】

傍題: 棘蕎麦(とげそば)・刺蓼(シリョウ)

 日本全土に分布するタデ科イヌタデ属の一年草。原野や路傍、水辺に生え、茎は蔓状で長さは1、2メートルになり
ます。茎には細毛の棘があり、他に絡んで茎をよく分岐して生育します。葉形は三角。8月から9月頃にかけて、小枝
の先に5枚の淡紅色の萼を付け、花弁はありません。

 和名の「継子の尻拭」は、この草の棘のついた茎や葉で、継子(一般に憎しみの対象になりやすい)の尻を拭くという
意地悪な想像から来ているそうです(う~む)。お隣韓国ではこの草を「嫁の尻拭草」と呼んでいるそうです。

写真掲載元:
小学館 『大辞泉』 第一版より

[ ひきよさば こうすままこの しりぬぐい ]

[池内孝]

このページのトップへ戻る


貝打ちや鑢の腕も上げにけり                    (21oct2011)


〔季題について〕


ばいまはし【貝回し・海蠃回し】

傍題: べい独楽・海蠃打・ばいばいごま・強海蠃・勝海蠃・負海蠃

 海蠃(ばい)は、貝(ばい)のことで、広辞苑第六版では「エゾバイ科の巻貝。殻は堅牢で、殻高7センチメートルに達
する。日本各地の浅海に産し、肉は食用となる。殻は、ばいごま(べいごま)・貝笛などの玩具とする。また、広義には
エゾバイ科の巻貝のうち、漁業の対象となる中形・大形の種の総称。「つぶ」とほぼ同じ語。蛽。海蠃。海螄。」と説明して
います。

 この貝を切断加工して、切断した貝殻の中に蠟や鉛を流し込んで独楽(コマ)を作り、「重陽の節句」(陰暦九月九日。
菊の節句)の前後に廻す遊びがあったそうです。もちろん最近まで行われていた「ベーゴマ」のルーツな訳ですから、
当時から盥や空き箱の上に置いた茣蓙を土俵として回し、勝ち負けを競ったそうです。

 私の子供の頃は、放課後であれば学校の教室内でベーゴマ遊びをしても叱られませんでした。またベーゴマは背を
低くしたり、角を尖らせたりすることで、破壊力を増すことが出来ました。子供たちは家に帰るとこぞって親に買ってもら
った板やすり(鑢)を手に、何時間もかけて自分の考案した意匠にあった形に加工したものです。もちろん、その後の手
は鋳粉で真っ黒。男の子はそれを布袋に入れて持ち歩いていました。そして出来上がりを試すために勝負を競ったも
のです(当時の勝負は勝てば相手のベーゴマを接収できました。強い子は何十個ものベーゴマを木の箱に収めていま
した)。

もう半世紀ほど前のなつかしい思い出です。

先人の句のご紹介:

負けゝゝて大将海蠃を出しけり (大谷句仏)
負け海蠃やたましひ抜けの遠ころげ (山口誓子)

[ ばいうちや やすりのうでも あげにけり ]

[池内孝]

このページのトップへ戻る


ひづち泣く刈穂の庵の苫住まひ                    (21oct2011)


〔季題について〕


ひづちだ【穭田】

傍題: 穭(ひづち) * 「ひつぢ」とも

 稲を刈り取った切り株から、櫱(ひこばえ)すること。つまり、刈り取られた稲株に残った生命力が再び稲を付けよう
と、その根元が発芽することで、これから冬に向かおうというのに青い芽が萌えて、新しい稲茎を生じる現象です。
一般にこれを「ひつぢ」「ひづち」と言います。

写真掲載元:
むねさん「むねやけの想い」ブログページより

先人の句のご紹介:

ひつぢ田の案山子もあちらこちらむき (蕪村)
何をあてに山田の穭穂に出づる (一茶)
穭田や痩せて慈姑の花一つ (正岡子規)→慈姑(くわい)

[ ひづちなく かりほのいおの とまずまい ]

[池内孝]

このページのトップへ戻る


二十四節気七十二候(にじゅうしせっきしちじゅうにこう)について                    (21oct2011)



 二十四節気の節は、「(小)節」(気候の変り目で時節を意味する)と、「中」(時侯季節を意味する)からできていて、
ひと月を「一節」とし、その内訳として「一(小)節、一中」とします。また各「(小)節」「中」とも三つの「候」(中国 [中原
=黄河中下流域周辺]では五日ごとに季節が変るとした)で構成しています。すなわち「1 節=1 (小節+中)=6 候」
とでも表わせるのでしょうか。

 こうすることで、一年を十二の「節(時節)」と十二の「中(時候)」で季節立て、農作業や自然災害などに対処する
ための指針としたようです。すなわち一年を二十四節(十二節、十二中)七十二侯とし、各々に呼称を付け、生活に
密着して捉えられるように工夫された中国に由来する季節区分法です。

 つまり中国人が物語的に各季節の風物を表わし語ることで時節を明らかにしようと試みたものであります。現代
の科学的実証主義や経験主義、実存主義などからすると一笑に付されるような内容も含んでおります。ただしその
本質は農業生産の安定、国力の充実、洪水の予測や予防などなどさまざまな専制政治下、水力経済下における
臣民・領民政策の上では教育的なものでもあったろうと思えます。また卜占的、陰陽老荘的でもあります。

 したがって、厳密には日本国の風土や天候には即応しません(漢学が先進学問だった時代の学者や外国の知識
人がお持ちになって、エヘン!と言いながら「あちらのモノであるからこちらの事情には全く合うというわけではない
が合うとおぼしきところもある故、また、こちらにはないのであるから、ありがたく使わせていただくのである。わからな
かったらエヘン、わしやわしの弟子に相談すればよろしい。わしらは学問しておるのでわかるによって…もちろん….
君らが知る必要はないのだ、わかる必要はないが、正しく導かれたくばわしらに依れば宜しい」という官制学問の移入
知識という奴で、ここが悩みの種な訳なのです。合わんのですなあ何百年もの間実に….、ま使うのが俳句だし、フィク
ションだからイイとするか…)。

 ご参考までに上表に一年二十四節(十二節、十二中)七十二候の呼称を一覧しました。なお陽暦・陰暦とも大凡符合
する関係に置いてあります。

[池内孝]

このページのトップへ戻る


つきつつき羣鳥羞を養へり                    (21oct2011)



〔季題について〕


ぐんちょうしゅうをやしなへり
【羣鳥羞を養へり】

傍題: 羣鳥養羞す(ぐんちょうようしゅうす)

 羣は「群」の異体字。一部古典・漢籍愛好家や書家の間で用いられている難読字。また「羞」は「細かく引き裂いた肉。
転じて、ごちそう」の意味(ここでは恥じるという意味ではありません)です。

 中国由来の七十二候の一。八月「白露」第三候。「多くの鳥が(群れをなして)食べ物を集めて、冬に備える」時候、という
意味です。先達の方々の例句として取り上げられているものはほとんどありません。

[ つきつつき ぐんちょうしゅうを やしなえり ]

[池内孝]

このページのトップへ戻る


顰み顔倣うや後の二日灸                    (14oct2011)


〔季題について〕


のちのふつかぎゅう【後の二日灸】

傍題: 秋の二日灸

 二日灸(ふつかきゅう ふつかぎゅう ふつかやいと)は、「陰暦二月二日と八月二日にすえる灸。」(『広辞苑』第六版)と
説明されています。単に「二日灸」と言う場合は、陰暦二月二日にする灸を、「後の二日灸」と言うと陰暦八月二日にすえ
る灸を意味します。従って俳句では前者を春の、後者を秋の季題としています。また二月二日にはすえず、一月二十日
(陰暦小正月)をこの日とし、年一回のみ「二十日灸」と呼んで灸をすえる地方もあります。

 お灸には「歳時灸」と呼ばれる、所謂年中行事としてのお灸が種々あります。この二日灸もその一つです(他には寒灸、
土用の灸など)。こうした歳時灸は暦法の普及と共に保健養生法や厄払いの年中行事として庶民に親しまれ、江戸時代
中期には全盛期を迎えました。その後、西洋近代医学の導入普及によって我が国の鍼灸は民間療法として市井農村に
伝承されてゆくことになります。また、地方によっては他の習俗と相俟って、現在まで行われているところもあるようです。
 また、この二日灸と二十日灸の分布を調べると、二日灸は二期作、二毛作地帯の多い関西を中心とした関東以西に
多く、二十日灸は関東以北の東北地方に多いなど、日本における年中行事の二重構造地域と単一構造の地域を分類し
て考える理論との整合性が囁かれています(折口信夫、宮本常一など)。

 さて二日灸の効用とはどういうものなのでしょうか。 二日灸をすえると、「その効他日に倍す」「これをすえると年中息災」
と言われているそうです。文言通りにとると、現代では俄には信じがたい迷信的世俗利益的な内容が含まれていたことに
気付くでしょう。昨今では、その効能は医療的に再評価されてきました。家庭で行う保健養生法やスポーツ養生などの分野
で「お灸」「鍼灸」が新たな脚光の下に科学的に用いられるようになってきました。

先人の句のご紹介 (春秋の二日灸):

愛敬の出る迄灸をすへる也    五鳥
あひよみをするやいとかずゝゞ    松永貞徳
秋に泣くふるき病や二日灸    青々
大いなる昔目鏡や二日灸    抱魚
鴛の衾に二日やいとかな    召波
灸の点干ぬ間も寒し春の風    許六
垂れこめて二日炙や嫁御寮    嘯山
日あたりの座敷に老いの二日灸    月兎
死はいやぞ其きさらぎの二日灸    正岡子規
猶遠き行脚の足や二日灸    大谷句仏
春もはやいたむ頭や二日灸    虚子
富士淺間二日やいとの煙かな    虚子
二日灸酒飲む膚の美しき    虚子
二日灸旅する足をいたはりぬ    虚子
二日灸玉の膚を汚しけり    虚子
笑ひたるつもりの泪二日灸    竹秋人
腕白を肌かにむぎぬ二日灸    碧梧桐
二日灸木辻の君もすゑに來る    碧梧桐
兩肩の富士と淺間や二日灸    碧梧桐
二日灸乳飲子ひしと擁きぬ    石田波郷
笈磨れの尊き肩や二日灸    飯田蛇笏
山の娘にみられし二日灸かな    原石鼎
老足に足袋美しや二日灸    後藤夜半

本文参照元: 東京・品川区武蔵小山の鍼灸院 「はり灸 艸寿堂」さんのHPより
図版引用元: 大阪・大阪市東成区 宮ノ森医療学園専門学校 「はりきゅうミュージアム」資料より

[ ひそみがお ならうやのちの ふつかぎゅう ]

[池内孝]

このページのトップへ戻る


誓文を祓ふ女の祓はれず                    (10oct2011)


〔季題について〕


せいもんばらい【誓文祓】

傍題: 夷切れ(ゑびすぎれ)

 京都四条町にある官者殿(かじやでん=冠者殿)に、清濁併せのむことを業にせねばならぬ者たちが参詣し、偽らねば
ならなかった一年の積を祓い、己が咎を認めることで神仏の罰なきよう祈る風習のことです。毎年10月20日(以前は旧暦
で行われました。また地方・地域によっては旧暦のその日、あるいは11月20日に行われているようです)に催されます。
 祭神は土佐坊昌俊(とさのぼう・しょうしゅん)という人です(東京の渋谷に「金王八幡神社」という神社があります<悪戯
書きをする者が後を断ちません…>が、応神天皇を主神とされていますが、ここに祭られている金王丸<渋谷氏、地名の
渋谷のはじめ>という方がこの人であるという説<『平治物語』『近松戯曲』>もあります)。さて、歴史書『平家物語』『源平
盛衰記』『吾妻鏡』からこの人の最期をとりあげてみましょう。

 時は平安時代終末期、源頼朝の臣であった土佐坊昌俊は頼朝の命により、鎌倉より総勢83騎で源義経の追討に向かっ
た。その日、昌俊は上洛するとすぐ義経に面会した。しかし義経に暗殺計画の討手と見破られ処断されそうになった。昌俊
はここで偽の起請(嘘偽りのないことを神仏に誓うこと)をし許されその場を逃れた。そして、その夜、昌俊の手勢が義経を
襲った(堀川夜討事件)。しかし義経は大器量を以てして昌俊の軍勢に道を開けさせ難を逃れた。夜討はこうして失敗し、
昌俊は鞍馬山に逃れた。後、義経ゆかりの荒法師らに捕らえられ、結果、六条河原にて打ち首、梟首にされた。しかし昌俊
の最期は義経への誓文を反故にしたことを悔い、関東武士然とした態度で斬首を申し出、受け入れられた。この堂々とした
態度を褒めそやさぬものは京都市中にはなかった。

 この筋書にはさまざまな政治的・軍事的な陰謀・挑発・思惑、大乱の中の主導権争いなどが絡み合っているため、昌俊が
斯様なことを実際したかどうかは定かではないそうです。またこの行事に関連して同日夷講が催され、誓文祓の売り出しが
現在でも行われているということです。

写真掲載元:
東京渋谷金王八幡宮のホームページより

先人の句のご紹介:

人ごみの誓文祓通りぬけ (雨月)
早くより誓文切れを背負かな (青木月斗)
引つぱりてゆづりあはざる夷切れ (山本八重子)

[ せいもんを はらうおんなの はらわれず ]

[池内孝]

このページのトップへ戻る


籬垣に忍びね待つや夜這星                    (08oct2011)


〔季題について〕


よばいぼし【夜這星】

季題:流星 (「夜這星」はこの流星[ りゅうせい ]の傍題として扱われます)
傍題:流れ星 星流る 星飛ぶ 星走る 走り星 奔星

 宇宙を漂っている塵が地球の大気に高速で突入し燃焼して発光する現象です。地表からの高度約100キロメートルの
地点で燃え始め、平均速度毎秒50キロメートル程度で燃焼しながら尾を引いて落下してきて、ほとんどのものが地表に
到達する前に燃え尽きます。発光の度合いが高いものは「火球」と呼ばれています。ただし、質量の大きなものは燃え尽
きないで地表に落下する場合があります。落下してきた物質は、その構成鉱物の違いによって石質隕石・石鉄隕石・隕鉄
と分けて呼ぶそうです。

 これが何故「夜這星」という異名を持つようになったかは定かではありません。枕草子254段に以下の記述があります。

        星は すばる。ひこぼし。ゆふづつ。よばひ星、すこしをかし。尾だになからましかば、まいて。

意訳:
星い~?星だったらあ…冬のスバル?かな、谷村新司のお。え、プレアデス星団っていうの?ふ~ん…で、次はあ、ほら、
七夕の~彦星?え、わし座のアルタイル?ふ~ん… て、ロマンあんじゃん。それとお~夕方の金星?!う~ん、あとお、
流れ星?福山雅治、歌ってたっけ。流れ星もイイ感ジかなあ。でもお流れ星って、尾っぽ?尾っぽがさ、チョットって。

先人の句例:

死がちかし星をくぐりて星流る 山口誓子
流星の針のこぼるるごとくにも 山口青邨
さそり座を憶えし吾子に星流れ 稲畑汀子

[ ませがきに しのびねまつや よばいぼし ]

[池内孝]

このページのトップへ戻る


山かけにとんぶり盛るや米の飯                    (06oct2011)


〔季題について〕


とんぶり

傍題:ずぶしとも

 ホウキグサ【箒草】の実。秋田県特産。美しく紅葉することでも有名な箒草から実を穫り、蒸し、水に曝し、手で揉んで
外皮を取り除く作業を複数回重ねてできたもの。 

 箒草の実は小さく、直径1~2mmで、粟にも似ていますが、キャビア(チョウザメの卵の塩漬け=ロシアやイランなどの
特産)に似た色・形態・味で、噛むとぷちぷちと潰れる歯ごたえと食感があり、「畑のキャビア」と喩えられています。和え
物、酢物にしたり、山芋・とろろ芋などを摺り下ろし、卵の黄身を乗せ、米飯にかけて食べる、いわゆる「山掛け」や、大根
おろしと和えて食べる食べ方もあります。

写真掲載元:
秋田県県庁のホームページ 「美食・秋田の食文化」から

先人の句のご紹介:

とんぶりを食ふ旅のコップ酒 皆川盤水
かきまぜてとんぶり飛ばす朝餉かな 雪田初代
とんぶりを噛んで遠くへ来しおもひ 仁尾正文

[ やまかけに とんぶりもるや こめのめし ]

[池内孝]

このページのトップへ戻る


釜蓋の明くる朔日高き空                    (04oct2011)


〔季題について〕


かまぶたついたち【釜蓋朔日】

傍題:蜻蛉朔日

 陰暦七月一日に盆入りする風習をもつ地域(中部地方から関東地方)があります。この日は地獄の釜の蓋が開く日で、
地獄で釜茹の刑に苛まれる亡者が解放されて我が家に帰れると信じられています。ちなみに「釜茹の刑」は、「盗み」を
働いたものが落ちる黒縄(こくじょう)地獄というところにある刑罰の道具だそうで、Wikipediaでは「釜茹で(かまゆで)と
は、大きな釜で熱せられた湯や油を用い、罪人を茹でることで死に至らしめる死刑の方法である」と解説しています。
また、この日は地獄と畑が繋がっているからと言って畑に近づいたり、また水の祟りを畏れ水源に近づいたりすることを
忌むならわしがある地域もあるそうです。

 なお、地獄には「八大地獄」があるそうで、広辞苑第六版から引用しながら、一部加筆すると「焔熱によって苦を受ける
八種の地獄、則ち等活とうかつ<殺生をおかしたもの>・黒縄こくじょう<盗みを働いたもの>・衆合しゅごう<殺生・盗み
の他に邪淫の罪をおかしたもの>・叫喚きょうかん<飲酒の罪をおかしたもの>・大叫喚だいきょうかん<嘘をついたも
の>・焦熱しょうねつ<他教を信仰したもの>・大焦熱だいしょうねつ<尼僧をおかしたもの>・無間むけん<仏教五戒、
大乗をおかしたもの>。おのおのに十六小地獄が付属する。鉄囲山てっちせんと大鉄囲山の間、または閻浮えんぶ洲の
地下にあるという。八熱地獄。八大奈落」と説明しています。

 傍題の「蜻蛉朔日」は、秋茜(赤蜻蛉)は七月一日に誕生する、という迷信からつけられました。赤蜻蛉を霊魂代とした
名残であると言われています。

先人の句のご紹介:

芋畑ひびく釜蓋あく音か 滝沢伊代次

[ かまぶたの あくるついたち たかきそら ]

[池内孝]

このページのトップへ戻る


季分くれば雷声を収めけり                    (03oct2011)


〔季題について〕


かみなりこえをおさむ【雷声を収む】

季題: 秋分
傍題: 秋分の日
旧傍題: 秋季皇霊祭

 「雷声を収む」は「秋分」の傍題として立てられている季語です。これも中国の七十二候の四十六候(二十四節気「秋分」
初候)の「雷乃収声」、すなわち「雷すなわち声を収む」から採られています。「略本暦」という中国の暦が原典(「略本暦」
が底本にしたのは「宣言暦」で、この暦でもこの四字が使われているようです)だそうです。この頃から雷があまり鳴り響
かなくなるという意味です。9月23日~9月27日頃、中秋に当たります。ちなみに「雷乃収声」の次の秋分第二候は、「蟄
虫坏戸(むしかくれてとをふさぐ)」と言い、末候(第三候)は「水始涸(みずはじめてかるる)」と言います。

[ きわくれば かみなりこえを おさめけり ]

[池内孝]

このページのトップへ戻る


徳余るおほかみ獣祭りけり                    (03oct2011)


〔季題について〕


おおかみけものをまつる【豺獣を祭る】

傍題: 狼の祭 豺の祭

 これも中国の農暦二十四節気の七十二候(しちじゅうにこう)の一つ、九月の
第一候を言います。

 おおかみが餌となる獣を獲り、それを生け贄(いけにえ)として天帝に祭ったと
いう神話的伝承に基づきます。ただし、中国では「豺(さい」)と「狼(ろう)」が分け
て用いられていて、豺は「やまいぬ(野生化した犬)」のことのようです(日本に
は小型の狼しかいませんでしたから、豺も狼も一緒くたになって<おおかみ=
大神=山に棲んでいる恐ろしいもの>となっているようです。

 豺も狼も人間に援用すると「貪欲で残酷な人」を喩えるときに用いられます。
たとえば「豺狼当路」(さいろうみちにあたる 『後漢書』)という故事がありますが、
文字通りの意味としては「やまいぬとおおかみが通り道にいる」という内容ですが、
実際には「邪悪で貪欲な自利我利の大臣が重要な地位に就いていて、それを窘
(たしなめ)めるものを排除し、殺し、権力を振るう」ことを喩えているそうです。

これと似たような表現に、春の季語ですが「獺魚を祭る(かわうそうおをまつる)」と
いうのがあります。

[ とくあまる おおかみけもの まつりけり ]

[池内孝]

このページのトップへ戻る


蛤になりし吾子問ふ親雀                    (03oct2011)


〔季題について〕


すずめはまぐりとなる【雀蛤となる】

傍題: 雀大水に入り蛤となる 雀化して蛤となる

 中国では紀元前300年頃までに、農業の都合で一年を24の節気(太陽の黄道上
の運行から割り出した黄経から算出するそうです)に分け、さらに各節気を三分割
し、自然現象にちなむ名前を付して72に細分した暦(農暦)が作られ、それ以来、
農の営みに用いられています。七十二候(しちじゅうにこう)と呼ばれるこの農暦は
日本にももたらされました。日本と中国の風土や気候、緯度経度などの違いを無視
して(半ば無理矢理)日本農業の営みの指針として導入されましたが、これに変わ
る科学的・文化的指針のなかった我が国では、江戸時代に独自のものが立案され
たものの、これに代替することもなく、現代でも、ことに事象を時候に合わせて詩文
化する試みである俳句の世界にも用いられています。

 さて、九月の第二番目の候は「雀蛤となる」と言います。中国では、空を飛ぶ物はすべて変化(へんげ)して潜み隠れる
物(潜物)となると考えられていました。そしてこの潜物となる時候がこの候だというわけです。空を飛ぶものの代表として
「雀」を、潜物として海岸の砂中に棲息する「蛤」を取り上げて、気候をあらわす言(げん)としたのでしょう。と言うのもどう
やら雀の斑(ふ)と蛤の貝殻の模様が似通っているところから、天然に構想力豊かな中国人がこの二つの生物を神話的
に関連づけたのだろうと言われています。

先人の句のご紹介:

蛤になる筈も見えぬ雀かな 小林一茶
蛤に雀の斑あり哀れかな 村上鬼城  —- 斑は(ふ)

[ はまぐりに なりしあことう おやすずめ ]

[池内孝]

このページのトップへ戻る


稲株に掬はる足や稲架組めり                    (27sep2011)


〔季題について〕


はさ【稲架】

地方、地域によって多様な名称で呼ばれているが、はざ、はせ、はぜ、はで、おだ などと訓まれ、音読で とうか などとも
言う。また、いなかけ【稲掛け】、はさかけ【稲架掛け】、おだかけ【おだ掛け】 などとも呼ばれる。

田で刈り取った稲は天日・風などに当てて乾かす。元、「狭(はさ)む」の意から出たとも言われている。日本全国各地の
田園地帯で見られるが、竹や木などで足を組み(はせ足、おだ足などと呼ばれる)、この足に横木を渡して(はせ棒、おだ
棒など)、それに刈り取った稲を次々と並べ掛け、乾燥させるために仮構する、多く屋根を伴わない野立の掘立の設備。

稲は収穫のために刈り取ると次の農作業である脱穀までの間乾燥させる必要があった。だが急速に乾燥させると、米が
割れるなど品質が下がり、商品価値が下落するため、農家では品質を保持するために一般的には二三十日間かけて
自然乾燥させていた。もちろん自然乾燥はその稲を干す田の土の湿り気や風土・天候に大きく影響される。そういった中、
最も空気に触れやすく、田の湿度の影響も受けにくい最も良好な状態で乾燥させる方法が ほさぼし【架干し】であった。
この架干しは、奈良時代に国の奨励技術として各地に普及したといわれる。さて、この作業のための設備構造物を稲架と
称し、今回の季題である。

農業就労者の高齢化、農家数の減少、都市化、工業化、耕作農地の大規模化・農業主体の企業化などを背景に、農業
生産の機械化・省力化、農産物の市場化が急速に進んだ。稲の刈り入れの現場では、刈り取り収穫の一連作業を自動化
するコンバインの導入により稲が田に立った状態( たちげ たちけ りつもう【立毛】)のまま、実った籾を直接、穂から取り放
す( だっこく【脱穀】)こともできるようになった。これにより日本の田園の風物詩であった「稲架」は急速に姿を消しつつある。
また更に籾の乾燥も、省力化、品質向上のために、籾の火力乾燥施設が地域に設置されるようになって、籾米を干す風情
も失われた。

こうして自然の力を借りて行ってきた農村の稲刈り作業や稲の乾燥のための稲架構造と掛稲は、「観光風物」「観光資源」
へと残念ながら変質してしまったところもある。

[ いなかぶに すくはるあしや はさくめり ]

[池内孝]

このページのトップへ戻る


龍淵に逆鱗立てて潜みをり                    (25sep2011)


〔季題について〕


りゅうふちにひそむ【龍淵に潜む】

現代日本人が一般的に知っている常識上の「龍」の概念は、日本に訪問・帰化・亡命などで来朝した中国あるいは中国の学問的知識を有した人々、そして古くは中国の春秋戦国時代に成立した『韓非子』、後漢の時代の『説文解字』という字典、近くは江戸時代(中国の明の時代)の博物誌『本草綱目』など多くの文献を通じて移入されて来ました。今回の季題「龍淵に潜む」を用いるためには、これらの「文献」の知識を少しでも持てたらもっと楽しくなるでしょう。

ということで、俳句をお好きなみなさんはもうご存じ。でも、この機会に、この「龍」について上述の三つの文献を見事にくたばること覚悟で「迷訳」してみました(ご注意:これらの訳文は私の意訳・誤訳、想像など学問的な意味には決してなじまない、私個人の創作的なさまざまな要素が入っていますので、真に受けないでください。あくまでも「お話」としてお読み下さい)。

では、まずは『韓非子』。

龍は虫の一種である。龍という虫は、穏やかな気分のときには人になれて、機嫌さえ好ければ天駆けるときもその背に乗
ることができるという。但し、龍の喉の下に直径一尺ほどの「逆鱗」と呼ばれるものがあり、万一、人がそれに触れようもの
なら、龍は大いに怒り、たちどころにそれに触れたものを殺す。臣民の上に立つ君主にも「逆鱗」というものがある。もし臣が
君主に直訴することがあるとしたら、龍のこの「逆鱗」のことをよく思い出し、君主も龍と変わらないのだということ胆に命じ、
君主の逆鱗に触れないように奉りなさい。逆鱗にさえ触れなければ、龍と仲良く共に空を旅することができるように、君主と
ともに幸福な生活ができるであろうから。

次に後漢の許慎(きよしん)の『説文解字』(または『説文』)の記述。

虫の王である龍は、ほの暗いところを好む一方眩しいほど明るいところにも現れ、細くて華奢なようであるが巨大であり、
短いようにみえることもあるけれど実は長く、春分になると天に昇って夏の間天を駆け巡り、秋分になると山奥の淵に潜り
冬の間は鎮まっているのである。

最後に明の学者、李時珍の『本草綱目』。

龍には他の生物に似た特徴がある。頭部は駱駝、角は鹿、目は鬼、耳は牛、うなじは蛇、腹は蜃(しん=ウミヘビか),体を
覆う鱗は鯉、手足の爪は鷹、そしてその掌は虎に似ている。背中には81片の鱗があって、陰陽の陽数の最高位である
9の2乗数であり、素晴らしく吉祥に通じている。龍の声というのはあたかもドラムのシンバルを叩くような音に聞こえけたた
ましく、口の周りは髭で覆われている。顎の下には透明で曇りのない玉があって光っている。頭の上には祭器の飾り状の
山型の隆起(博山という)が川に穿たれたかのような溝(尺水という)で分かたれて二つの瘤となって盛り上がっている。
この博山に尺水が刻まれないと龍は天に昇る能力がないと言われている。口から吐き出した息は雲となり、湿気を多量に
含んでいるため、すぐに雨雲となって雨を降らす。また、時にはその吐き出した雲は火炎にも変ずる。龍が火を吐く場合、
その火に湿り気があると蒸し焼きの炎のようであり、水を多く含むときは火山蒸気のような熱を吐き出す。人間が用いて
いる火を龍の吐き出す炎や熱気に近づけると、龍のものは消え失せてしまう。漢方医学に言う相火、すなわち火は火に
して火に非ず、火を以て火を制するを良しとするという処方に通う性質の火を龍は持っている。龍は卵を産むが、鳥のよう
に抱卵せず、遠くから卵に念を送って孵す。雄の龍は風上に向かって、雌の龍は風下に向かって鳴く習性がある。また、
龍は風に化けることができる。大きな龍だが交合のときには小蛇ほどの大きさになる。龍の性格は非常に粗暴であるが、
美しい玉や珍しい青色をした鉱石を好む。また龍は燕の肉が大好物であるが、鉄、ムカデ、防虫用の栴檀の葉、寺院や
墓地などに栽植されたり抹香の原料となるシキミ、臨終に引導を与えるという青・黄・赤・白・黒の五色の糸が大の苦手だ。
だから人間でも燕の肉を食べるのを好む者はムカデの出るような湿り気のあるところを嫌い、水飢饉には燕の肉を捧げて
雨乞いをし、一方、水害のあるときには鉄を用いるのである。

こうやって見てくると、漢字という一語一意を起源とする表意文字が持つドラマ性もさることながら、中国の人々が天然
に想像力豊かな人々であることが判ってきます。想像力で生み出した架空の動物を博物誌の中に記述して、しかも
それが伝説であって、誰も見たこともない(普通の感覚の人には見える由もない)のに、こうしてあたかも実在している
ものかのように記述し、スケッチまで存在することに驚かされます。古今東西、伝説や神話は絵画化されたり物語化
されていますが、この「龍」もその例に漏れませんね。私たちは「龍淵に潜む」という季題を用いて俳句をしようとする。
これは俳句のもつ「物語性」に典拠する表現としか言いようがありません。なにしろフィクションそのものなのですから。
西洋的な観察に基づく客観的「写実性」を重んじる一方で、こんな主観的で夢幻な「東洋のフィクション」の世界を描こう
とする。季題によって表現する世界が錯綜して、西洋と東洋の接点を行き来するという意味でも、

俳句って、いやあ、本当に面白いですね。

[ りゅうふちに げきりんたてて ひそみをり ]

[池内孝]
このページのトップへ戻る


きちかうの蕾のままや二心なし                    (25sep2011)


〔季題について〕


きちこう(ききょう)【桔梗】


古名で きちこう、ありのひふき、あさがお、おかととき と呼ばれるキキョウ科の多年草。

芽之花 乎花葛花 瞿麦之花 姫部志 又藤袴 朝皃之花

(訓読) 萩の花 尾花葛花 なでしこの花 をみなへし また藤袴 朝顔の花
[ はぎのはな をばな くずはな なでしこのはな をみなへし またふぢはかま あさがほのはな ]
『万葉集』 秋雑歌 山上憶良

「秋の野に咲きたる花を指折り(おゆびおり)かき数ふれば」と、山上憶良(やまのうえのおくら)が『万葉集』で詠ったこの
秋の七草の歌の七番目「あさがほのはな」の「あさがほ」、『万葉集』ではこの首を含め五首「あさがほ」が詠われておりま
すが、実は現代の「朝顔」ではなく、どの首も「桔梗」だ、んにゃっ、「昼顔」ですっ!、うそ~!….などとといろいろと言われ
ております。

ご存じの通り「桔梗」は、蕾のときは風船状で、初秋から咲き始め、茎に向かうに従って仄白くなり、尖端が五裂(五数性)
する青紫(白色や二重咲きの改良種もある)の合弁花で、花冠が癒合した釣鐘形のその姿は愛らしく印象深いものです。
双子葉植物。根は薬用になり、漢方では去痰剤、鎮咳剤や排膿剤などとして使用されているそうです。

桔梗を詠んだ俳句は数え切れませぬが、参考までにいくつかご紹介いたします。

きりきりしやんとしてさく桔梗かな      小林一茶
修行者の径にめづるききやうかな      与謝蕪村  —- 径は(こみち)
紫のふつとふくらむききやうかな      正岡子規

「ききょう」には上記したように、植物学や「俳句学?」の世界ではいろいろと難しそうな定義がありますが、日本では「桔梗」
がかなり多く伝統的にデザインに取り入れられております。例としては、家紋、お皿(の形)、笠(の形)、袋(の形)、引手
金物、茶器、ランプシェード…今回の句はこの中で「家紋」を取り上げています。

〔自櫂〕

時は天正10年5月26日、織田信長の命により重臣・羽柴秀吉は備中(岡山県)の毛利家を攻め、「備中高松城」に籠城した
毛利軍を包囲し、「水攻め」にしていた。しかし、毛利方は温存していた主力部隊を秀吉の後方に送り、挟撃の機会を窺って
いた。これを察知した秀吉は、信長に密書を送り、援軍を依頼する。

戦さ巧者の秀吉の思わぬ苦戦に焦燥した信長は、明智光秀に命じ、秀吉の援軍に赴くよう指令を発する。この時、信長は
光秀の領地を返納させ、これから向かう備中の毛利の土地を領地に与えるといった。しかし…

「信長め、わが所領を没収した上、まだ戦にも勝ったわけでもなく、手にも入れていない毛利の領地に俺を封じようというか。
戦に勝てぬわけではないが、京都育ちのこの俺が、何故、備中あたりの田舎領主にならねばならぬのか、えい、信長め、
ついに堪忍袋の緒が切れた。これまでの積もりに積もった怒りの矛先を、今、まさにお前に向けてくれるわ」

丹後の城に戻った光秀は、時を移さず秀吉の援軍を招集するのであった。しかしそれは表向きの姿であった。実は光秀は、
家臣の 斎藤利三、明智(左馬介)秀満、藤田伝五 など重臣を集め、信長攻略の方策を立てるのであった。光秀は、丹後の
愛宕神社にて「愛宕百韻」と呼ぶ連歌会を開いた。連歌会歌始となった光秀は、面従腹背、表面は服従するように見せかけ
て、内心の反抗を表わして、次の発句を詠むのであった。

ときは今 天が下しる 五月哉

[ きちこうの つぼみのままや にしんなし ]

折も折、信長の右腕の秀吉は西で毛利との戦いに苦戦していた時、やはり信長の重臣で左腕であった柴田勝家は北陸で
上杉家の籠もる魚津城を攻め立てていた。

難攻不落の安土城にあった信長は、京都に移る。千利休の招待による茶会に出席するためであった。また信長には有能で
有力な家臣・徳川家康がいたが、家康はまた堺の町見物に出かけていて、茶人であり堺会合衆の一人 ・津田宗及の接待を
受けていたのであった。

信長は茶会出席のため、少人数の手勢で安土城を出て京都に移る。戦国の世が信長により統一されたとはいえ、信長の
手勢はいかにも脆弱であった。信長の宿泊先は本能寺であった。本能寺もまた平寺。合戦に有利な点はどこも見当たらぬ
ただの大寺にすぎなかった。

その日、光秀は丹後の亀山城を一万三千の軍勢を率いて出発する。その夜、光秀の家臣や家来は一所に集められ、光秀
の号令を聞くこととなった。その号令とは、

「敵は毛利にあらず」

家臣も家来も一斉にお互いの顔を見合わせた。間髪を置かず光秀は叫んだ。

「敵は本能寺にあり」

一同にどよめきが起こった。そしてしばし沈黙の時が過ぎると、それは歓喜の叫びに変わったのであった。というのも、時を
少し遡る数日前、遠州からやってきた徳川家康の接待を信長に命じられた光秀は、粗相をしたとて、家康の目前で信長に
叱咤され、また森蘭丸より鞭打ちを受けていたのであった。家臣や家来たちは家康が訪れたことで光秀が恥を掻かされたと
いう噂を伝え聞いていたからである。家臣や家来の多くは本能寺に<家康>が旅寓しているものと勘違いしたのであった。
だが、そこにいたのは….

夜が訪れ、京の町が寝静まるころ、京都・油小路には戦仕立の軍勢が密かに犇めいていた。北斗七星を背にし天運を担ぎ、
京に侵入した光秀の軍勢が本能寺を包囲したのであった。もはや本能寺周辺は侍姿の者が立ち入り、また逃れる間隙は
なかった。わずかに僧侶や小者が命からがら通して貰えるだけであった。

白々と東雲が明るみはじめたころ、光秀の号令が飛んだ。

「掛かれいっ」

光秀の家臣・家来は鉄砲を撃ち放ち、軍略通り本能寺の四方より一斉になだれ込んだのあった。

合戦の鬨の声と具足の擦れ合う音、大人数の駆け回る音で信長は目覚めた。この騒動はただ事ではない。幾たびもの死地
を乗り越え、合戦慣れしていた信長に危うい戦の緊張が走った。信長は叫んだ。

「戦だな、この金物の打ち合わさるは合戦の音。蘭丸!蘭丸!大概を知らせよ」

物音に気付きすでに中庭に出て様子を窺っていた蘭丸が信長の寝所へ駆け込んでくる。

「殿、謀反、謀反にござりまする」

「やはり謀反か。我が家臣に二心あるものがあったか。で、何奴が反旗を翻したのか」

「は、寺の周り、『桔梗紋』の旗竿。あの旗頭、明智が者と見え申し候」

「何、桔梗紋…光秀….明智…光秀か」

「左様の由でござりまする」

「桔梗咲かせおるはここ本能寺としおったか。この期に及び、是非に及ばず」

さて、その後もみなさまのご存じの通り。信長は弓、長刀で明智方と応戦するものの手傷を負い奥の部屋に入るや、蘭丸
に寺に火を放たせ、そのまま自害して果てるのであった。

時、天正10年(1582年)6月2日早朝、光秀が謀反を決意した六日後のことであった。

[池内孝]

このページのトップへ戻る


われからの櫂なき舟や刈藻宿                    (20sep2011)


〔季題について〕


われから【割殻】

藻に住む虫、藻の虫、藻に鳴く虫、などの傍題もある。

海女の刈る藻に住む虫のわれからと音をこそ鳴かめ世をば恨みじ
(『古今集』 藤原直子)

を本歌とした後、恋歌の詩句に用いられてきた。

生物学的には「割殻」というヨコエビ目ワレカラ亜目の甲殻類を総称して言うようであるが、句作上で用いられる「われから」
は、上記の生物学上の具体的名称やグロテスクな形態から離れ、空想的でロマンチックな動物として取り扱われるように
なり、今日に至っている。 

〔自櫂〕

藻の中に住む虫(われから)は何を頼りに生きているかお考えになられたことがありますか。頼りとするのはこの大きな広い
海を漂うだけのこの藻ばかりなのです。この藻の中に住まうわたしはただこの藻の漂い行くまま身を委ねていることしかでき
ない身の上です。

あなたは乗る舟は櫂(かい)を失って漂っていらっしゃるのですね。必ず行く先に着けると考えて舟を漕ぎ出されたのでござい
ましょう。人のすることに絶対などということはございません。お心掛けだけではどうにもならないこともございます。

もし一人で悲しんでおいででしたら、このわたしとひとときを共にいたしませんか。あなたの乗った舟と並んでわたしはこの藻に
乗って一緒に海を漂っていましょう。

でもあなたはしばらくすると我に返って、腕を櫂にしてでも、またきっと舟を漕ぎ出すことでしょう。そのときわたしはあなたの舟
の艫(とも)にこの藻ともども絡まることを祈るのです。

そうなればこの藻と一緒にあなたはわたしを刈りとって下さるでしょう。そしてお腹をすかしたあなたは<われから喰はぬ上人
はなし>の諺通り、この藻と共に私を食べて下さることがあるやもしれません。

ああ、そうなって欲しい。

あなたに食べられてしまえば私はこの藻と共にもうこれ以上この海を漂うことがなくなるのですから….

[ われからの かいなきふねや かるもやど ]

[池内孝]

このページのトップへ戻る