‘The Book of Tea’ (§1)―『茶の本』(第一章)

book of tea-ikenouchi

茶の本(§1) 意訳版 (通読編)

岡倉覚三 著/池ノ内 孝 訳

―はじめに―

 奇しくも、来年2013年は岡倉天心先生逝去百年に当たる年である。晩生とて彼の偉業に感嘆するところ頓なる今日この頃である。この記念すべき節目に、天心先生の『茶の本』は初版本が刊行されてからすでに百六年もの歳月が流れたものの、我が国近代に綺羅星の如く現れた一天才の瑕疵なき珠玉の如き一冊であることに変わりはないため、老骨、ここに<意訳版>として拙輩なりに<少しづつ>訳出することとした。とはいえ、翻訳家でもない、在野の一凡夫の訳するものであることを読者諸氏にはご高配たまわりたく、また誤訳・迷訳などがあった場合も、その責めは偏に私一個人に存することをここに明言しておく。

 またこの訳を<意訳版>とした由は、実は読者を前提とせず、朦朦たる吾がなりにひとり理解を深めんとするものであり、訳文中にやつかれが精神を覚醒させるために無用な文を組み入れ恣意的に訳出しようとしたものである。しかし、もし万ヶ一、当代に於いて、斯様なる蒙昧稚拙な訳文たれど、枯淡な名文たる本文を併記することで、読者諸氏の用に供することたり得ればと、公開するものである。こうして自我の高邁なる理想と血気のみで内容の伴わぬものとなっていることも再三重々ご承知おきいただきたい。

 また昨今、伝統的なものをただ単に「マニュアル化」する風潮が甚だしく、本来あるべき「精神性」が失われて久しい。表層のみの伝統を誇り、権威と家伝・保身に汲汲し、カネ儲けにしがみつく、あるいは情報的知識のみを振り回し、質実の伴わぬ輩こそ、凡夫のもっとも遠ざけるところのものである。この悪潮に「棹さし」て、幾許かその流れに抗するは、船に刻みて剣を求める如き田夫野老の儚き所行と知りつつも、ここに敢えて行わんと欲する遠因でもある。

池ノ内 孝

平成24年 尽日

▼▽▼ 作者について ▼▽▼▽▼

岡倉天心〔おかくら・てんしん〕:

 文久2年(1862)2月26日 – 大正2年(1913)9月2日 美術評論家、詩人、思想家。本名は覚蔵(角蔵)、のち覚三と改称した。天心はその号。横浜の本町生れ。父覚右衛門(晩年、勘右衛門)、母このの次男。次弟岡倉由三郎(よしさぶろう)は英文学者。覚右衛門は越前福井の藩主松平慶永(よしなが [春嶽])に仕える下級武士だったが、主命で横浜に出て石川屋の屋号で生糸の輸出業に従事していた。開港時代への熱気立ちこめる横浜で、しかも外国商人の出入りする家に生れたことは天心の生涯を左右する要因になった。

 天心は幼時から高島英語学校で米人ジェイムズ・バラーに英語を学び大いに熟達した。また、幼時の乳母つねが橋本左内の縁者で幼い天心に左内の人物、思想を鼓吹したこともその人間形成に影響したといわれる。明治6年一家は東京に移ったが、この年、天心はわずか12歳で東京外語学校に入り、8年東京開成学校入学、10年開成学校の東大編入により、天心は16歳でその文学部学生となった。翌11年米人フェノロサがお雇い教師として着任、政治学、経済学、ついで文学、美術を教えた。このフェノロサとの出会いが天心の生涯を左右することになった。天心は12年、18歳で大岡もとと結婚したが、たまたま妊娠中でヒステリーを起した若妻が天心の卒業論文『国家論』を焼却したため、あわてて『美術論』を執筆提出する羽目になったという偶然事も天心の人生コースを大きく曲げたのである。

 13年天心は19歳の若さで東京帝大を卒業、文部省の官吏になった。最初約二年は音楽取調掛だったが、ついで古美術の調査、保存の仕事に転じフェノロサらとともに古社寺の名宝を探究、17年には法隆寺夢殿の秘仏救世観音(ぐぜかんのん)像を初めて開扉、深い感銘をうけた。19年初めて欧米に出張、20年帰国後、東京美術学校幹事、ついで帝室博物館理事を兼任し、23年には29歳で同校校長となった。天心は西欧美術万能の時流に抗して日本美術の復興に努力を傾け狩野芳崖(かのうほうがい)、橋本雅邦らを教授陣にすえた(芳崖は就任直前病没)が、その結果、同校初期の学生からはのちに天心と行をともにする横山大観、下村観山、菱田(ひしだ)春草らの日本画の偉材が輩出した。

 だが非妥協的で言行も無軌道な天心には敵も多く、やがて天心の失脚をめざす策動を契機に「美術学校騒動」がおこり、ついに31年、天心は非職処分にされたが雅邦以下多くの教授陣は連袂(れんべい)辞職し、ただちに日本美術院を創設、ここに拠って日本美術の創造的発展の運動をつづけた。これが天心の在野時代の始まりである。しかし美術院の経営は困難をきわめた。そして困難に直面するとそこから脱走するのが天心の癖である。34年11月、天心は突如インド放浪の旅にのぼるが、翌35年インドの大詩人、思想家タゴールと知り合い、その民族主義思想にふれたことが天心の生涯に新局面をひらく契機になる。思想家天心の著名な英文三部作――『東洋の理想』『日本の覚醒(かくせい)』『茶の本』――は、この在野時代の代表作である。その後天心は欧米、中国、インド遊歴や、ボストン美術館顧問をつとめたが、大正2年9月、新潟県赤倉山荘で病没した。51歳。

 晩年の天心は旧日本美術院所在地(3.11の大津波で崩壊した「六角堂」[平成23年4月再建] を中心とした施設)の茨城県五浦(いづら)海岸で魚釣りに熱中したり、また、英文詩劇『White Fox』(『白狐(びやつこ)』大2)や英詩、漢詩も多くつくった。

 著書に『天心全集』全三巻。大11、日本美術院刊。『岡倉天心全集』(一)全三巻。昭10―11、聖文閣刊。(二)全五巻。昭14、六芸(りくげい)社刊。(三)全八巻、別一巻。昭54―56、平凡社刊。『岡倉覚三英文著作集』(OKAKURA KAKUZO:Collected English Writings)全三巻。昭59、同所刊。(「新潮文学倶楽部」より)

▼▽▼▽▼ 原書について ▼▽▼▽▼

『茶の本』(ちゃのほん):原題’The Book of Tea’。岡倉覚三(天心)の著した英文の評論。明治39年(1906)、ニューヨーク、フォックス・ダフィールド社刊。昭和4年(1926)に岩波書店から翻訳が刊行された。現在、岩波文庫の一巻として所収されている。伝統的東洋・我が国の民族文化のエッセンスである茶道の精髄、哲学などを西洋文明を批判しつつ、心にくいほど枯れた英文でしたためたもので、欧米の知識人を驚嘆させた名著である。

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A 人間の器

001

 茶はかつては薬でした。それがいつのまにか日常的な飲み物へと移り変わってゆきました。玄宗が帝位につき開元の治を敷き、まさに盛唐の時代から帝国の滅亡へと振り子が大きく振れた八世紀の中国では、茶は上流階級の気晴らしの埋め草となり、詩人の領域にまで入り込んでいました。時代は進み、茶は日本にも伝播して、十五世紀の日本では、茶人(ちゃじん)という一種の芸術家(風流人)が生み出され、彼らを中心に実生活に茶事(ちゃごと)を持ち込むことで、茶を介して美の自律性を打ち立て、普段の生活自体を芸術化しようという耽美主義(aestheticism)の領域にまで高められました。これがいわゆる「茶道」です。

 茶道を「儀式」という面から見ますと、日常生活につきまとう「むさ苦しいことども」の中に美を見いだす一定の順序・作法で厳粛に行われる一連の行為、と言うことができましょう。次に茶道の目標ですが、これには三つあって、まず一つめは清潔・衛生を前提にした「清浄と調和」の追求、ふたつめに人間関係における相互の「思いやりの奥義」を極めること、そして三つめとして、「ロマン的社会秩序を実践的に学ぶ道場」、すなわち一定の社会秩序を前提に、個人に根ざした自我を尊重しつつ、同時におのおのの感性を主情的に整然と表現・発現させる場とすることです。また、茶道が目的とするものは何かと申しますと、それは、私たちが日常生活で「気づいていない」ことを「気づかせる」、また気づいていながら「できていないこと」を「できるようにする」ためのごくごく繊細な企て、と言えます。こうして見ますと茶道が追求するのは、本質的に「完成形のない」儀式なのです。

002

 こうして、日本人は茶を通じて普段の生活の中にある人生観や世界観にかかわる道理を深めようとしました。しかしこれは西洋人が一般的に用いている意味の耽美主義を実現しようとしたのではありません。

 日本独自の倫理性や宗教性の影響の元に確立された「茶」が表現する日本の「耽美主義」は、その倫理や宗教を背景に、人間と自然との関わりを全て包括させて綜合的に観察しようとするものなのです。そういう意味では、茶は、西洋哲学の基底にある「矛盾・対立」をヘーゲル的に言えば止揚により統合するという垂直方向の階層的概念とはまったく対照的な、「契合・並立」による調和に基づく融合という水平方向の横断的概念の上に成り立っているともいえるでしょう。

 また茶は清浄、すなわち厳粛な清潔さを保持することを求めます。つまり茶は衛生学なのです。茶はその姿をモザイクのごとき複雑性や大金を注ぎ込んだ豪奢なゴチックやロココの典雅のごとき人民を苦しめるほどの贅の探求に措くのではなく、つまり究極の単純性、質素倹約、質実の生む安らぎを表わそうとします。つまり経済学なのです。茶は「十方世界」と人との関わりにおける心象心眼を定めるという意味で、倫理的・道徳的幾何学ということができます。茶は、一旦、俗事や俗世間の瑣末な出来事から離れて会すれば、居合わすものはみな枯淡な趣きを味わう審美眼を持ち合わせた「君子(=仁者)」として、上下の区別、彼我の対立なき交流を実践・堪能する東洋的な平等精神が顕現する「場」の儀式なのです。

003

 徳川時代の三百年にわたる長い鎖国は、わが国にとって自らと自らの社会を熟考するに十分な時間を与えてくれました。この鎖国は、結果的に「茶」の発展に大きく寄与しました。私たち日本人の住まいや習慣、衣装、料理、陶器・磁器、漆工芸、書画、そして文学作品に至るまで、文化のあらゆる方面に「茶」の影響が浸透しました。日本文化を学ぶには、「茶」が与えた甚大な影響を無視して進めることはできません。茶の影響は高位の身分のご婦人の独居室、すなわち「閨房」に品格と品位をもたらし、また庶民の雑魚寝大部屋の造作にも取り入れられてゆきました。そして驚くべきことに全国津々浦々、辺鄙の農民までもが華道の精神と心得を学び、力仕事の土方・人足でさえ水石・山水の趣きを承知していて、上役の差配を待つまでもなく自ら案を提じ、按配することができるほど、民度を高めるのに貢献しました。

 さて、私たち日本人はよく、某人を称して「あの人は、茶気(ちゃき)に欠ける」ということがあります。「茶気」は、もちろん、侘茶の目標として、武野紹鴎が残したという「連歌は枯れかじけて寒かれと云ふ。茶の湯の果てもその如く成りたき」という言葉や、その弟子の千利休が弟子の矢部善七郎宛に送ったといわれる書状に認めた「侘数寄常住、茶之湯肝要」の十文字に充満している茶道の心得のことです。深奧を解せぬものには、単に「風流を好む気質」と説明されています。字義の詮索はこのくらいにして、この「茶気に欠ける」という言葉が、いったいどういう人に用いられるかと言うと、つまり人、人の生き様とは「真面目なものでありつつ滑稽なもの」であるという、いわゆる諧謔を解さぬ、鈍感で人情に通じない人、現代風に言えばユーモアを理解できない人をさして言います。

 また一方、私たちは自らの意や思うに任せるばかりで不粋な審美眼しか持たぬものにも、この「茶気」という言葉を用います。この場合は「あの人は、茶気満々だ」という揶揄の効いた表現をします。これはまた「茶る」とも言われます。この「茶る」人や「茶気満々」と呼ばれる人たちは、どういう人たちかと申しますと、たとえば日常の中にある悲しい出来事(すなわち四苦八苦、煩悩の苦しみ)に直面している人やそれを慮る周囲の人々の中にあって、渦中の当人や会衆の感情を無視して、無神経な物言いをしたり、無頓着であったり、意に介さなかったり、また、あまりに政治的・社会的抑圧や束縛から感情的に自由になりすぎて、即ち、野放図で野暮になって、周囲から浮き上がっている自らに気づかないまま、調子に乗って有頂天になってふざけ事を言ってみたり、おどけてみたり、騒ぎ廻ったり、もっと言ってしまえば、人心の自然の動きに逆らう、人の心を踏みにじるような言動をする、人情の機微に欠けた人のことをいいます。

004

 門外漢が端で見ていたら、「無」にどうしてそうもああやこうや注文をつけられるのか、と思うかも知れませんね。たかが「コップの中味」のことに何のバカ騒ぎかね?と。ではどうです?考えてみてください。器を生きる喜びで充たし、悲しみの涙で溢れさせ、決して自らを抑えることのできないほど渇いたときには、一滴も余すことなく飲み干す場合のことを。茶には欠点がありません。人類は「蛮行」を繰り返してきました。酒の神バッカスを崇拝して、器を酒で充たしたのです。そしてやりたい放題生け贄を献げ、ローマの農耕の神「マルス」を血塗られた戦の神に描き替えました。ああ、人類は何ゆえこのバッカス神を崇拝したのでしょう。何故、この「カメリアの女王(ツバキ科の女王=茶のこと)」のために命を献げようとしなかったのでしょう。女王の祭壇から流れ出す、暖かな感情を共有する液体になぜ酔いしれようとしなかったのでしょう。白磁の器につがれた琥珀色の液体、茶。茶というものは、その手加減ひとつで、甘やかで控えめな孔子、辛辣な老子、この世のものとも思われぬ極上の香りを放つ釈迦牟尼、そのいづれにも触れることができるのに。

005

 自分の内なる立派な行ないというものは実はとても些細なものであるということを感じ取る力のないものは、他者の小さな立派な行ないを見落とすものです。平均的な西洋人は、自分の生活に満足していて、他者の行ないに対しては無頓着です。

 こういう平均的な西洋人は、「茶の湯の一連の作法」を見て一瞥をくれる一方で、「茶の湯」なんてものは、東洋人の「おもしろおかしな風習」、東洋人らしい子供っぽくてかわいらしい「おままごと遊び」といったたぐいの、所詮まあ、はるかに後進的で、未開の、取るに足らない、つまり、西洋人によって「開明・啓蒙してやる」「西洋の恩恵をあたえてやる」にふさわしい「東洋の土人」が、長年月かけてためこんだつまらぬ土俗陋習の一事例として奇異な眼でながめることでしょう。彼らは、私たち日本人が、茶という「和の心に満ちた穏やかで上品なおままごと」に女々しくおとなしく耽っていた間は、日本人を東洋の土俗を持った数多の野蛮な土人の一種族とみなしていました。

 ところが、こうした傲慢なものの見方をしていた西洋人も、、私たちが満州(中国東北部)で近代戦争という大虐殺(=日露戦争のこと)を行うと、「文明化した」一員とみなして一目を置くようになりました。その結果、最近では、この「近代戦争」を戦いきった私たちの大量殺戮を支えた「サムライの法典=武士道」、すなわち『葉隠』の一節、「武士道といふは死ぬことと見つけたり」という「死に方(いかに潔く死ぬか)」の部分に関心を寄せ、多く論評を割くようになりました。

 しかし、残念なことに、日露戦争を戦い勝ち、生き抜いた私たち日本人を支えていた「生き方(いかに生き抜くか)」を多岐にわたって表明する「茶道」に着目する論評はまったくないというのが現状です。もしこうした西洋人が、私たち日本人が満州でなした「身の毛のよだつ残虐と大量殺戮と多くの同胞の犠牲の末の勝利」を<文明として>褒め称え賞賛するのであるとしたら、私たち日本人は敢えて東洋の未開の土人のままでいた方がましなのです。

 こうした方々が、「茶」すなわち日本の風土と日本人が紡ぎ出した「いかに生きるか」のための「美」と「理念」に関心を示し、これこそが日本人を賞賛するべき「法則」であり、相応の尊敬をもって日本と日本人を先進国の一員として正統に賞嘆する時がくることを、私たち日本人はその時が訪れるのをじっと待ち続けているのです。

006

 さて、西洋人はいつになったら東洋人のことを理解したり、理解しようとするようになるのでしょう。私たち東洋人は、西洋人が私たちを「奇妙きてれつ」な幻想と現実をないまぜにして見ていることを知って愕然とすることがあります。たとえばネズミやゴキブリを食べて生きているというところまではいかないまでも、東洋人は蓮の香りを食べて生きている、とか、東洋人というのは無気力で幻想に浸っているインポテンツか、さもなくば性の官能世界に溺れた色気違いと想っていたり、インド人の精神性は無学が生み出し、また日本人の言う愛国心とは生と死に対する悟りと諦めの行き着くところ、すなわち「やぶれかぶれ」とか「死に物狂い」のことを言う、などと言っては小馬鹿にするのです。さらに驚くべきことに、彼らは平気な顔で、さもまことしやかに、日本人は人間としての感覚器官・神経系に問題があって痛みや傷に対して鈍感なのだ、と宣うのです!

007

 西洋の方々は私たち東洋人を肴にしてどうぞ思う存分お悦しみください。東洋人はあなたがたに感謝の言葉をお返ししましょう。私たちが西洋人について心に思い描いたり書いたりしてきたことがどんなものかを知ったら、あなたがたがいま悦しんでいる肴はいかにも宴にそぐわないということに気がつかれるでしょう。みなさんの宴のテーブルの上に並んでいるのは、うっとりするほど雄大な「大局観」であり、「強制なき忠誠心」という奇跡であり、西洋人にとって新しくそして解読不能な、東洋人の「静かな憤り」なのですから。

 東洋人から見ると、羨ましいほど繊細な功徳と同時に、死をもって償わねばならぬ絵のように美しい大罪を併せ持っているのが、あなたがた西洋人なのです。東洋の賢人たちは、これまであなたがたのことをにこんなふうに書き伝えています。「西洋人はその衣服の下に毛の生えた尻尾を隠し持ち、しばしば晩餐で啜るのは人間の赤ん坊の細切り肉シチューである」と。いや、それどころか、私たちは、あなたがたのことを、これより更におぞましく思っていたものです。すなわち「自ら経験したこともないことに平気で口をはさみ、知ったような説教を垂れる、遠慮会釈のない、謙虚と礼節をわきまえぬものども、そう、地上でもっとも手に負えぬ横柄な人間。それが西洋人である」と。

008

 ただし、東洋人と西洋人との間のこうした誤解は急速に解消されつつあります。たとえば、東西通商のために、東洋の港湾では西洋の言葉を使わざるをえませんし、東洋の若者たちは近代の進んだ知識と教養を身につけるために西洋の大学に押し寄せています。

 今のところ私たち東洋人の叡智は西洋文化に深く浸透していませんが、何はともあれ、私たち東洋人の側は西洋の英知を学ぼうという意欲と気概が充満しています。西洋に学ぶ我が同胞の中には、あなたがた西洋人の慣習やら交際上の儀礼や作法を身につけることが文明だと勘違いし、西洋文明の博識・博学を誇示するシンボルである堅襟のハイカラーや山高帽を身に付けて、見かけ倒しに誇示して見せて、特権階級エリート意識と自己満足に浸っているような心得違いのものが幾らかあります。こういう形から入っただけの、見せかけの西洋人の猿まねのともがらは、見ていて赤面噴飯、恥ずかしさに耐えられぬばかりか、嘆かわしく悲しむべき手合いですが、見方を換えれば、こうした輩の幼稚な猿真似も、なりふり構わず真摯にひざまづいてまで教えを乞おうとまでするのも、西洋の先進に少しでも近づき吸収したいという積極性の現れであるということもできます。

 残念なこと、西洋人の側は東洋人を積極的に理解しようという態度はもちあわせていません。喩えて言えば、西洋のキリスト教伝道師たちは、自分たちの宗教と価値観を東洋人に授けようとはしますが、東洋の側、こちら側の宗教と価値観を受け入れようとはしません。あなたがた西洋人の東洋や東洋人に対する情報は、ほんの通りすがりに旅人が小耳にはさんで、故郷に持ち帰って尾びれをつけて大袈裟に話すような、ほとんど頼りにならない「みやげ話」程度のものではないにしても、東洋人が積み上げてきた途方もない量の文献の中からつまみ出した、しかもそのほんの抄訳に基づいているのです。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)氏の騎士道精神に基づいた高潔で虚偽誇大なき堂々たる筆鋒やシスター・ニヴェディータ(マルガレット・E・ノーブル)女史の筆になる『インド人の死生観 [輪廻転生] (THE WEB OF INDIAN LIFE 1904)』のような、我々東洋人の内に秘めた心情の機微に触れながら東洋を活写する例はごくごく稀なことなのです。

009

 こうした私の無遠慮な物言いは、私の茶道に関する無軌道を臆面もなく晒しています。すなわち茶道の決まり事からすれば「無遠慮な物言い」は、「型破り」の重罪であり、嘲笑の対象たる「恥ずべき無軌道」と言えます。

 茶の席では同席するものは誰もがお互い相手に口に出してもらいたいと望むことだけを口にし、予定調和を乱さぬことが求められます。もし至らぬあるいは粗相に気づくものがあれば、気づいたものは当の本人が知らぬをそれとなく本人に知らしめ、知らぬを恥と自ら悔い改める機会を与え、またそれを人間関係に遠回しに強いるのが和の極意たる茶道の教養ある崇高なる人間関係の精神です。つまり同席するものの和を乱したり、衆人環視の手前、皆まで語るような余計な物言いや態度は強く戒められるのです。しかし私は茶人然と教養をちらつかせ、自ら茶の大家たらんがために、こうしているわけではありません。

 西洋の新世界と東洋の古い世界の間の相互不理解によって、すでに非常に多くのまた大きな損害や犠牲が生まれていることはご承知の通りです。洋の東西が相互によりよく理解し合うよう促すためには、こうして微力でも貢献しようとするのが当たり前ではないでしょうか。「いやはや分不相応な僭越なる振る舞いにてご気分を害されるようなことあらば、無教養のなす不作法・不逞、まだまだ青二才の生意気と大いに恥ずべきところ。何卒大寛容にてご赦免ご容赦のほど。今後斯様なこと二度なきこと服膺し、ここに失礼のほど重ねてお許し戴かんこと請い願い上げ奉りて候」などとわずかな寄与・貢献さえ、いちいち弁解している場合ではないのです。

 昨年(1905)には、ポーツマスにて講和会議が開かれ日露間に講和条約が結ばれました。こうして戦争も終結した二十世紀初頭の今、あの頃を顧みて、もしロシアが日本国のことをより理解しようと謙虚な行動をとっていれば、あの残忍ないくさの壮絶な光景を目の当たりにすることはなかったでしょう。東洋の後進性をさげすみ、無視する態度がもたらしたのは、慈悲のひとかけらもない、人間として身の毛もよだつような結末だったのはご存じのとおりです!

 日露戦争で我が国が勝利して後、F.リヒトホーフェンが唱え始めた黄色人種を警戒せよという「黄禍論」が以前にもまして喧伝され、こんな馬鹿げた説をヨーロッパの帝国列強はこぞって正論のごとく盛んに声高に叫んでいます。ところが、あなたがたがそう言えば言うほど、その脅威の対象となるすなわち東洋人もまた、白人が東洋人に害を及ぼす残虐な精神を持つ人間であること(白禍論)に目覚める、ということに気づかなければなりません。あなたがた西洋人は東洋人を「おまえらは何かというと茶ばかり飲んでいるな(お茶を濁しているな)」と言って嘲笑すればするほど、私たち東洋人はあなたがた西洋人は「茶気(茶道の心得、風流を解する気質)のひとかけらもない」人たち、と確信するのです。

010

 さて、西洋人も東洋人もお互いに皮肉のこもった寸鉄を浴びせ合うのをやめにしませんか。お互いに恵みがあるように地球を半分づつ分け合うような賢さがないようなら、その結果は日露戦争よりずっと悲しむべきものになるでしょうから。私たちは洋の東西で異る歴史の流れに沿って歩んできましたが、どうです、お互い足りない部分を補完的に融通し合おうではないですか。これが互恵関係というものです。

 あなたがた西洋人は、貸借対照表の流動コストの計算に基づいて短期間で領域を拡大してきました。私たち東洋人はあなたがた西洋人の得意とする、損益勘定に基づくコスト割れをさせないための「正当な理由なき攻撃」やハンムラビ法典以来の「目には目を歯に歯を」という等価的公正・平等概念に基づく「好戦的な態度」にはうまく対応できません。東洋人は「困ったときはお互い様」の関係、すなわち「互恵協調性」という社会・人間関係を育ててきました。東洋人が西洋人より優れた部分を持っているなんてあなたがたは信じたくないでしょう?東洋人はいくつかの部分で西洋人より優れているのです。

011

 さて、奇妙なことですが「人と人とが触れあう」とき、西洋でも必ず「ティー・パーティ」が催されます。西洋人の誰もが普段の生活で普遍的に尊重している、「唯一」、東洋人から受け入れた儀式、それが「茶」です。白色人種のみなさんは、我々赤色や黄色の東洋人の宗教や道徳・倫理については、てんで科学とはかけ離れた未開の土人たちの邪宗・邪見として、頭から考察には値せぬと偏見・冷笑の対象にしていますが、どういうわけか、この「茶色」の飲料だけは、そうした偏見も躊躇もなく、西洋人の生活に溶け込んでいます。

 今では、「アフタヌーン・ティー」という「茶会」は、西洋社会で重要な役割と働きを持っています。ホストがゲストの心を慮ってトレーやソーサーを取り扱う繊細な音、茶を淹れるしとやかで潤いと思いやりに満ちた衣捌きの音、クリームや砂糖を用いるにあたっての要理を籠めた茶話 … 。私たち日本人はその作法を目の当たりにすると、疑いもなくそこに「茶の湯」の精神が宿っていることを知るのです。

 煎じ方ひとつでどのようなものが出てくるとも知れぬ不確かなものを、それが出されるまで、時の流れに身を任せ只管待つゲストの哲学的諦観のひととき、それをホスト、ゲストが一体的に共有し閑かに心を通わせる作法と時空間。ここに明らかに「東洋の精神」=即ち「和敬清寂」が隈無く行き渡っているのを感じ取ることができるのです。

012

 ヨーロッパ人の手になる最も初期の茶に関する記録は、「879年以降、中国(唐)の広東の歳入は、塩と茶の課税によって賄われている(注*)」と書かれたアラビアへ行った旅行者による報告書だと言われています。また、「東方見聞録」で著名なイタリア人の旅行家マルコポーロは、1285年、中国(元)の蔵相が茶の税率を専断したため罷免された、と記録しています。

 極東(東アジアと東南アジアの地域)について西欧人がより知識を持つようになったのは、大航海時代(「発見時代」とも呼ばれています)のことです。16世紀の終わり頃(日本は戦国時代末期、中国は明末)、オランダ人が「東洋には密林の樹木の葉を用いて喫する心地よい飲料(=「茶」のこと)がある」という報告を西洋にもたらしました。以後、1559年にジョバンニ・バティスタ・ラムシオ(イタリアの地理学者で旅行家)、1576年にポルトガル人のL.アルメイダ、1588年のマッフェノ、1610年にはタレイラら西欧の旅行家たちも茶について言及した報告を行っています。そして、タレイラが東洋の茶の報告をしたこの年、1610年、オランダ東インド会社の商船がヨーロッパに茶を初めて持ち込んで後、1636年にはフランス、1638年にはロシアに伝播しました。

 英国では、1650年、「この気味合い高き崇高な、しかも、お医者殿が青ざむるほど健康に優れしと太鼓判を押されたる、かの地の果て海の彼方の極東・中国よりはるばる伝来したるこの飲みもの、これ何と申すと人問はば、教えて進ぜん、彼の国シーナの人々、これを<ッチャー>、またその他アジアの国の人々が<チャイ>あるは<テー>と申すものなり」と喧伝され、茶の風習は英国社会に歓迎され、溶け込んで行きました。

注*
このころ中国は「唐」の末期で、黄巣の乱(875~884)によって国内は混乱を極めていた。この乱の首謀者の王仙芝も黄巣も闇塩の密売商であった。また日本は、平安京に遷都(794)して80年ほどが経過し、国風文化の栄える藤原摂関政治が始まった頃の平安時代初期に当たる。また当時(7世紀から15世紀末まで)のアラビアは、インドの西部からアラビア半島・アフリカ北部・イベリア半島まで版図としたサラセン(イスラム教徒)が支配していた地域の一部で、ムハンマド(マホメット)の後継者(カリフ)が、その地位を得るたびに王朝の交替が繰り返されていた。

013

 現在、世に普及している良品と同じように「茶」も社会に認められるためには通らねばならぬ踏み絵がありました。この東洋の飲料の普及に拒絶反応が現れたのです。

 たとえば、ヘンリー・セイヴィルという人は、「茶」を飲み続けると、西洋人の男性は(東洋人のように)チビになり、折角の(彫りの深い端正な)容貌が失われ(東洋人のような平たい顔になって)、また女性はその美貌を損なうはめになると思われる、と述べる(1678年)など極端な説を掲げるものもありました。また「茶」は当初、1ポンド当たり約15、16シリングと、一般庶民の普段使いにはほど遠い高価なもので、それが普及を妨げていたばかりか、「畏くも女王陛下と御貴族の高雅なる御接待や御もてなしのために特別に製造せられし御用達、また斯様なる賢き御方々のために特別に調製せられし贈答品なり(おまえら愚かな下々が口にできるような代物ではない)」と銘を打って販売されていたのです。

 しかし、17世紀半ばにもたらされた喫茶の習慣は、こうした普及を妨げる逆風をものともせず、瞬く間に広まって行きました。それまでロンドンの社交場だったコーヒー・ハウスは、18世紀前半には、事実上、茶を提供するティー・ハウスへと変貌し、アディソン*やスティール**といった多士済々の文化人が「一服の茶」を介して時を過ごす社交場となり、社会に受け入れられて行きます。こうして「茶」が英国社会になくてはならない「生活必需品」となるや、国は重要財源として「茶」に課税しました。

 さて、これに関連して、私たちは「茶」が近代史において重要な役割を演じたことについて思い起こさずにはいられません。すなわち、それまで本国の抑圧に耐えに耐え抜いていた英領アメリカが、この茶税導入を契機についに独立の反旗を翻すことになった事件、「ボストン茶会事件」***です。ボストン港で茶箱を海に放り捨てたこの事件によって、アメリカ独立革命の火蓋が切られました。


* アディソン Joseph Addison (1672‐1719) :英国のエッセイスト・詩人。親友 Steele と共に The Spectator (1711‐12, 14) を創刊し、二人で多数の随筆を書いた。

** スティール Sir Richard Steele (1672‐1729) :アイルランド生まれの英国の文人・政治家。The Tatler (1709‐11) を創刊。その後、親友Addison とともにThe Spectator (1711‐12, 14) を創刊した。

*** ボストン茶会事件:植民地商人によって横行していた茶の密貿易によって、東インド会社は茶の滞貨に苦しんでいた。1773年、本国のノース内閣は、植民地商人による茶の密貿易を禁じ、東インド会社に茶の独占販売権を与える茶税法を制定した。密貿易を断たれ経済的苦境に立たされた米植民地住民は、各地で茶の荷揚げ阻止や茶販売人(専売商)の辞退強制などの直接行動に出た。12月16日、ついに反英急進派の一団がインディアンに扮装し、米東海岸マサチューセッツのボストン港内に停泊中の東インド会社の3隻の船に乗込み、342箱 (1万 5000ポンド分) の茶を海に投棄した。英国本国政府はこれに激昂。翌1774年、ボストン港閉鎖法など「強圧諸法」を制定し、米植民地住民に損害賠償を求めた。ボストン市民はこれを拒否、マサチューセッツ住民や他の米植民地住民もこれに同調、大陸会議を結成して抵抗した。当初、米国の独立は英国本国内での言論による改革運動で得ようとする穏健なものであったが、この事件は、この無血・穏健な独立運動が、英国からの分離・独立を力で勝ち取ろうとする「革命運動」へと転化する契機となった点で重要な意義があるといわれている。

014

 心の乱れを鎮静するばかりか、しかも醇化することができる、この「茶」の味覚には何とも得も言われぬ魅力があります。西洋の粋人たちは、彼らの思想の香気と茶の香りをあっというまに混ぜ合わせてしまいました。

 飲めば酔い人を傲慢にさせるワイン。啜るうちに覚醒して自我の意識を過敏にし激昂しやすいコーヒー。ばからしいほど頑是ないココア。茶にはこうした他の飲料が持つ欠点がありません。

 『スペクテータ』紙の1711年の記事にはもう次のような文章が掲載されています。「小生、然するところ斯くして、毎朝のこと、茶とパンとバターの食事に一時間を費やしておる次第。日々規則正しき生活を送らるる謹厳なるすべてのご家庭に、己が行いしこの善習慣、是非試みてご覧ぜよ。なおその折、茶道具一式とて欠かすべからざるその内なる一品、また茶事に常に用うるものあり。はて、すなわち、それは何ぞと人問わば、この新聞、『スペクター』なり。この新聞、茶道具一式の内なるものと、必ずご購読なされよとお勧め申し上げる次第」と。

 警世家で才人のサミュエル・ジョンソンは、「僕は茶の常飲者でね、茶に対してはまったくもってふしだらなんだよ。僕はこの興味が尽きぬ植物を煎じた飲み物、二十年間ね、これ一筋でね、食事をこれで薄めていただいてきたんだ。夜となれば茶を愉しんでね、真夜中には心や体を茶で癒し、そしてね、君、茶を以てして朝を迎えてきたんだよ」と自らについて弁じています。

015

 茶の愛飲家を自称する作家・エッセイストのチャールス・ラムは自著の中で「人知れず為す善行、そして無心の中にそれを見いだすこと、これらが大いなる喜びであることを茶は私に教えてくれました」と記しました。

 ここに「茶の湯=茶道」の真髄が語られています。すなわち、「茶の湯」とは、思いや人為を敢えて表に出さず暗示するものであり、またそうした思いや人為がこっそり仕込み隠されたものをその美の内に探り、見出だす芸術なのです。「茶の湯」とは静かな、とはいえ徹底して自嘲的な気高き自得、そう、「内証」(自分の心のうちに真理を体得すること。また、その悟り。内心の悟り)なのです。それゆえ「茶の湯」はそれ自体、「諧謔」(「人生とは真面目で真剣なものである一方、おもしろおかしい滑稽このうえないもの」と知ることから得られる達観的な考え・見地・姿勢・言動のこと)であり、その自嘲的な笑いは人生哲学が籠められた古拙な微笑(アルカイック・スマイル)として姿を現します。

 この意味で、たとえば、小説家のウィリアム・メイクピース・サッカレー、そしてもちろん劇作家・詩人・俳優のウィリアム・シェイクスピアといった本物の風流人たちは「茶の哲人」と呼べるかもしれません。また、退廃的で虚無的・耽美・病的なデカダンス運動が(まあ、日露戦争という近代の阿鼻叫喚を知らぬ西欧では、退廃的と言っても名ばかりの観念的な世界に他ならなかったと思えますが)19世紀末に一世を風靡しました。この世紀末デカダンスの詩人たちは、近代の物質主義への抵抗の一環として、ある意味、「茶の湯」に運動の方向を求めたことがありました。

 二十世紀初頭の今日、洋の東西が互いに足りぬ点を補い合うという考えは、たぶん、まだ西洋人と東洋人がなし終えていないことをなすための冷静で慎み深い直感的認識、すなわち茶事の観想(真理・実在を他の目的のためにではなく、それ自体のために知的に眺めること。また、一つの対象に心を集中して深く観察すること。理想の様相を想起すること)のひとつでしょう。  

016

 中国や朝鮮では、中国古代の伝説の王、黄帝の時代の神話・伝説を起源にして、後の老荘思想を中心に儒教、民間宗教及びその他の宗教の長所を習合させた道教(タオ)という宗教が盛んです。もちろん日本にも伝わっています。

 タオは、この伝説の王・黄帝を天として、陰陽五行易学、因果律と宿命・運命論に基づき、「忘我、無為」「無為而無不為」「心静如水」などという言葉で語られる無為自然思想と、不老不死を求める仙界・神仙渇望に満ちた世界観を持っています。これは長生と財徳、均衡的共生を重んじ、故に呪詛と託宣と方術を信奉するといった社会風潮をもたらし、その波動が行き詰まると、社会は革命という天の命運によって変革されるという社会的宿命・運命論にも繋がっています。

 このタオの教義をざっとわかりやすく言えば「すべてのものごとは目的も目標もない存在のみであり、その存在には始まりも終わりもなく、ただ変化が均衡しながら運動し、それが先天的な宿命と後天的な運命によって明暗を左右されて波動している」という考えです。

 さらに頑是無い説明を加えましょう。すなわちタオとは「人智の及ばぬこととは人智の及ばぬことそのものであり、人智の及ばぬが故に人智が及ばぬのである。人智が及ばないのだから、人智を及ぼそうとしても(たとえば、善悪、優劣、上下、選ぶも選ばれぬ、などなど)それは無駄なことである。ただし、人智の及ばぬそれ(天の意志のようなもので自無為自然な何かの運動)には波(運命・宿命)がある。だから人はこの人智の及ばぬその波に乗って、人智の及ばぬ波の力に従い、それを利用することが肝要だ。すなわち人智の及ばぬそれの波に乗ればよい。人生とはすなわちこのことであり、その波に乗るも乗れぬも落ちるも乗り切るも利用するもせぬも、これまた人智を超えたものである。だからジタバタしても始まらない。自然に任せるしかない。したがって人は人智の及ばぬということをよくよく信じ理解し、人智の及ばぬそれの波(宿命・運命)の大きさと動きとリズムと力を知り見分けてバランスよく乗ることができさえすれば、すなわち宿命・運命をさえも左右できる。だからそれに乗る直感(=理)とワザ(方術)を身につけよ。さすれば、すなわち、それを創造した天(無為自然なる何か)に限りなく近づける」とする宇宙・宗教・社会・人生論なのです。

 道教を信じる人々は以下のように説きます。
 
 「さて、まだ私たちの世界が混沌(始まりのない偉大なる始まり)にあったころ、天にあって魂に命を与え「陽気」を司る黄帝と、地にあって万物を支配し「陰」を司る地帝(祝融)の二人の帝がせめぎ合っていました。このせめぎ合いはとどのつまり、黄帝(天皇大帝<天帝>とも言います)が、「陰気」と地の魔である地帝を打ち負かし決着が付きます。しかし、その際、敗れた巨人・地帝は臨終の苦しみに悶絶し、太陽のある天球にその頭を激しく打ち付け毀し、その蒼穹のかけらの中をのたうち回りました。ああ、悲しいかな、こうして天球をなくした星々はその身を隠す場所を失い、地帝によって打ち割かれた底知れぬ暗闇の深淵に、月は行き場を失い当てどなく彷徨いました。

 こうして己が勝利により皆が苛まれる姿を目前にし、自らの無力に絶望した黄帝は、この地帝の毀して崩れ落ちた天球を修復できるものがないか、あらん限り八方手を尽くして探し回りました。しかし残念ながら帝の願いを叶えられるものを見出だすことはできません。

 帝がこうして困り果てていた折、遙か東の海の彼方の国の女王で、麒麟の角と龍の尾を持ち炎の鎧を身に纏った女神、女娲(にゅうか)が現れます。女娲は己が魔法の大釜で五色の虹を溶かし出し、中国の毀れた空を修復します。ところが、女娲はその際、蒼天の裂け目を二つうっかり埋め残して作業を終えてしまいました。その埋め忘れた二つの裂け目とは、二つの愛、すなわち希望と平和でした。

 こうして希望と平和の二つの魂はそれぞれ決して休むことなく大空を自由気ままに駆け巡り、離ればなれな状態が始まりました。ただし、ということは、天のこの二つの裂け目を埋める、すなわち平和と希望で裂け目を埋めることができさえすれば宇宙はまた再び一つにまとまり完成するのです。ですから、私たちは天に欠けているもの、すなわち平和と希望を自ら胸に持って、未完成の大空を完成させなければならないのです」と。  

017 (§1 完)

 現代の「人の世」は、「カネと力(ちから)」に目が眩んでいます。それはあたかもギリシア神話に出てくる単眼の怪力の巨人、錬金術師のキュークロプスのような魔物に支配されているかのように見えます。

 世界は、己が快楽の高みを目指した自己利益のための短期的諸活動に合理性を求め、他は他として一線を画し、そこから得られた果実を自分自身の最大幸福として偏に己に還元する、いわゆる「エゴイズム=自己中心主義」と、他を押しのけても人目を惹き、世間的な名誉・名声や富、権力を得たいという自尊自得の上流渇望に基づく低劣で胡散臭い自惚れに塗れた「俗気」の支配する闇に覆われています。

 損益計算書とバランスシート(貸借対照表)の結果、つまりカネがカネを生むことを重んじる現代は、世を育て進化させるためのはずの知見知識さえも今では地に墜ち、行き過ぎた風潮、すなわち、悪巧み、悪行、悪事、悪心にさえも大いに用いられるもまた必要悪と是認され、清濁併せのむを然る事として首肯するを社会発展也などと曲学阿世の曲論を、あたかも正論の如く宣う一方、世直しや善行や良心のためにはなかなか積極的に用いられようとはしません。また博愛を発意とし、窮民や貧者、社会的弱者の救済や社会の善的発展を目指す慈善、非営利、公益などと銘打つ諸活動も実は、結果的には費用対効果、費用対満足を実現する簿記上の手法の一つにほかなりません。つまり「カネと力」にならぬことは行われにくいのです。

 神通力が得られるという「如意宝珠」が投げ込まれた高波の逆巻く荒れ狂う海に、この珠を求め雌雄争う二頭の龍のごとく、洋の東西が戦い合うなどというのははなはだ無益なことです。私たちは日露戦争を経験しました。あのように悲惨きわまりない無慈悲で無益な阿鼻叫喚地獄が再びもたらされないようにするために、今、あの、悲嘆に暮れる黄帝を立ち直らせ、こなごなになった天球を補修した東の海に浮かぶ国の女王「女娲」が再び必要なのです。そう、斯く人類の窮状を救い、無量無辺に摩訶不思議なる霊力を及ぼされる菩薩、インドではアバターラ、アバターと呼ばれる権化の降臨を我々は待望しているのです。

 さて、私たちを困難から救済してくれる斯様な崇高なる菩薩が顕現されるまでのひととき、いかがです。我が拙き手にて恥ずかしながら茶を一服お点て申し上げ進ぜましょう。

 ご覧なさい。露地の向こう。左様、あの緑輝く竹林。燦々と降りそそぐ午後の日差しに照り映えて美しゅうございますな。蹲踞(つくばい)に水は楽しげな音を立て、うたかたは生まれては消え、その縁を溢れ伝い閑かに流れ、そして下り、庭や木や苔や草花をまめやかに潤しています。耳を澄ましてご覧なさい。松籟(しょうらい)のようですな。はは、茶庭に耳を澄まされましたか。誠に松の梢を過ぎ行き枝葉を鳴らす風もこれまた趣があります。いやいや、たとい風のそよとも吹かずとも、風炉の五徳に乗りたる釜の湯が沸き立ち蓋を鳴らす音に耳傾ければ、これまた松籟の如し。その真率、幽かと謂えど爽なること。斯様、儚きことどもの中に共に寂かに気息して、愚者、もちろん我ことですが、千慮必有一得の境地に、もしや美(うま)しき愚昧、さて、あるやなしや、つきましては長居もまた可、善哉。さあ、いざ一服奉りましょう。   

2013feb2

<第一章 完>

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