少年文学 こがね丸

原作:巖谷小波 (少年文学「こがね丸」より)
現代語訳、潤色:池ノ内 孝

「こがね丸」(巖谷小波, 1921版) オンタイム・リーディング (青空文庫) [click here! ]

<朗読>

 
 むかしむかし、ある深山の奥に、一匹の大虎が住んでおった。この虎は長命で幾星霜を経たその体は仔牛よりも大きく、その目は磨きに磨いた鏡かと思われるような光を放ち、その髭は針の山のようであった。その咆哮もすさまじく、一旦吼えれば、その声は渓谷にとどろき渡り、梢に停まっている鳥もその恐ろしい声に気を失い地に落ちるほどであった。この虎はこれほどの力を持っていたので、山に住むあらゆる動物たちはこの虎を畏れ、その威に従わぬものなどいようはずもなかった。誰も刃向かうものがないこの大虎は、ますますその威を高め、自ら「黄金の目の大王=金眸(キンボウ)大王」と名乗り、その山に住むすべての獣を睥睨し、百獣の王ならぬ、万獣の王として君臨していた。

 それはちょうど一月の初めの頃のことであった。一月、初春とはいっても名ばかりで、寒さも厳しく、折しも一昨日からの大雪で野山も岩も木も冷たく深い綿帽子を被り、風が吹きすさび、その寒さといったらこらえようもないほどであった。その日、金眸大王は朝から棲処の洞に籠もって、あまりの寒さにうずくまっていた。

 そこへ普段から目をかけていた聴水(チョウスイ)という古狐が崖道を伝い、降り積もった雪をかき分けて金眸大王の洞穴の入り口までやってきた。聴水は体についた雪を払って、遠慮深く体をにじって洞に入ってきて、まず丁寧に前足を揃えて挨拶すると、こう切り出した。

 「大王様はおとといからの大雪で、お外にもお出にならず、この洞にじっとお籠もりになられ、さぞかし退屈でいらっしゃいましょう」

 金眸大王は横になっていた体を起こすと、

 「おお、誰かと思えば聴水ではないか、この雪の中、よく参ったな。お前が言うとおり、この大雪では外に出て何かするというのも難儀であるから、オレは退屈まぎれに、この洞で眠っておったがの。食い物の蓄えも次第に少なくなってきて、いくらか腹が減ったと思っていたところだ。何か良い獲物はないか。・・・・この大雪だ、獲物と言ってもなかなか手に入るものでもなかろう」

 とため息をついた。すると聴水は金眸大王の言葉を打ち消してこう言った。

 「いえいえ、大王様。大王様がもし本当にお腹がお空きで、何か食べ物が欲しいと思し召されるのであらば、私儀、大王様に良い獲物を進呈いたしましょう」

 「何、良い獲物があると?・・・で、お前はそれをどこに持参して来ておるのだ?」

 「いえ、大王様。ここにお持ちいたしたわけではございませぬが、大王様、大王様の威を以て、またそのお力を惜しまず、この雪道を少しばかりの労は厭わぬというお心づもりがございますれば、私儀、良い獲物のいる場所までご案内することができるのでございますが・・・、いかがなさります?」

 と聴水は言った。

 金眸大王は聴水の言上を聞いて、カラカラと高笑いをしてこう言った。

 「おい、聴水。いかにオレが年老いたといっても、どうしてこれしきの雪を苦にしたり、恐るることがあろうか。こうしてこの洞にしけ込んでいるのは、それは雪も深く寒さが厳しいゆえ、億劫で体を動かすのがイヤだという訳ではない。この雪では獲物になる方もじっとしているであろうから、無駄な外歩きをするほどのこともなかろう。大王として決然としておるだけだ。今、お前が言った良い獲物があるという話がウソでなければ、オレを今すぐにその獲物のおる処まで案内せよ。オレがそこに行って、お前の言うその良い獲物を手に入れよう。で、その獲物はいずこにおるのだ?」

 大王を乗り気にさせると、古狐の聴水はしてやったりという顔をしてこう言った。

 「大王様には、早速、私儀の申し出をお聞き届けいただきまして、身に余るほどありがたく存じます。では、これから仔細を言上させていただきます。大王様におかれましては、今すぐにでもその天を衝くお力をご発揮されようと奮い立たるる勇猛なお姿、いかにもご立派で、恐れ多いことでございますが、なにとぞ、今しばらくお心をお鎮め願いまして、私の話をお聞きたまわりたく存じます。どうぞ、今しばらくお心お静かに・・・。そもそも私が申し上げましたその獲物と申すは、この山の麓の里にございます庄屋の家に飼われている犬の奴のことでございます。何を隠しましょう、私はその犬に深い深い怨みがあるのでございます。今、大王様にお出ましいただき、その犬に天誅を加えていただけるのであれば、これこそ私の敵討ち、復讐の介添えを賜ったものと、我が喜びこれに勝ることはござりません」

 ここで金眸大王は、聴水の話を少し訝ってこう言った。

 「いや、その話、解せぬな。お前の今言った怨みというのはどういうことだ。苦しゅうない、構わぬから言って聞かせよ」

 「ありがたき幸せ。大王様、実は一昨日のことでございます。私が今申しあげました庄屋の家の際を通った時のことでございます。その時、その庄屋の納屋と思われるあたりで、ニワトリの鳴く声が聞こえました。お、これはいい獲物がおるな、と思いましたので、私、すぐに裏の垣根の隙より庄屋の邸内に忍び入って鶏小屋へ向かおうとした時でございます。あの憎き犬め、あの犬の奴めがめざとく私を見つけ、まっしぐらに飛びかかって来たのです。私もニワトリに目が行っておりましたので、恥ずかしながら不意のことで大いに慌てふためいて、このままでは命も危ないと思い、この窮地から逃れようと先の垣根の隙の穴に一心不乱に向かいました。そして今その穴を走り抜け逃れようとしたとき、あの犬の奴め、まだ垣根の中に残っていた私の尻尾を咬えて、私の体を中に引き戻そうとしたのでございます。私は、これで戻されたら一巻の終わり、と、その咬んだ尾を払って逃げようとしました。その勢いが余っていたため、私の尻尾の先を、あの犬の奴め、あの犬の奴めに少し噛み取られてしまったのでございます。私は尻尾を咬み切られて、命からがら逃げて参りました。切られた傷口の痛むこと甚だしく、今日のこの日まで五体満足に過ごして参りましたのに、残念なことに、この歳になってそれも儘ならぬことにあいなったのでございます。それもあのにっくき犬の奴めのおかげなのでございます。大切にして参りました私の尻尾も、年寄りの襟巻きにもならぬほど短くなってしまい、最早何の役にも立たぬ代物になってしまったのでございます。それはそれは私は気も折れ、今は目の前も暗くなり、残念で残念で、くやしくてくやしくて仕方がありません。とは申しても、奴は犬、私はキツネ。復讐しようにも奴にはとても歯が立ちませなんだ。仇を討ちたし、それもならず。ただただ怨みを飲み込んで日々を過ごしているのでございます。大王様、私、聴水を不憫だとお思いになられるのであれば、大王様、どうか私のためにあの犬の奴に仇を返してやっていただけませなんだでしょうか。大王様、先ほどは獲物を進呈すると申し上げましたのも、実を申しますと、この念叶わぬものか、願叶わぬものかの由でござります」

 と、古狐の聴水はいかにも哀れらしく金眸大王に訴えたのだった。金眸大王はこの話を聞いて、いかにもと頷いて、

 「その犬の振る舞いはまったくもって憎むべきものだ。よし、よし、オレが行って、その犬の奴を一つかみにして、目に物を見せてくれるから、お前は心安らかにしておれ」

 と大王は聴水を慰めつつ、犬の行いに憤慨したのだった。

 やがて金眸大王は聴水を先に立たせ、脛よりも深く降り積もった雪を踏み分けながら、山越え谷を渡り庄屋の家に向かった。ほどなく山の麓に出ようという時、先に立って歩いていた聴水は急に立ち止まるとこう言った。

 「大王様、あそこに見える森の陰、そら、今、あの煙が立ち上っている処が、お話いたしました庄屋の屋敷でございます。ただ、大王様、今、大王様が自ら先頭に立たれ、あの庄屋が屋敷に踏み込んでいただきますと、おそらく家の者たちは驚ろき腰を抜かすばかりで、あの憎き犬の奴め、いち早く逃げ出し、それでは却って仇を逃すことにあいなるかもしれません。ここに当たって、私、聴水、計略がございます」

 と言うと聴水は金眸大王の耳に口を寄せ、何やら耳元で小声でささやいた。

 すると、今度は金眸大王が先に立つや、大王はドヤ顔をして庄屋の家に向かって進み出した。

2

<朗読>

 
 庄屋はこの里の役人で、月丸と花瀬という夫婦の犬を飼っていた。この家に貰われてきて以来、二匹とも庄屋本人はもちろん内の人々にたいそう可愛がわれたので、二匹はそれをとても恩義に感じ、主に忠実に仕えるとともに、家人と財産を守っていた。この月丸と花瀬の働きで、長らく庄屋の家には泥棒も入ることがなく、財産家として栄えていた。

 この数日続く大雪に、まるで久しぶりにお越しになった伯母様にお会いできたような嬉しい心持ちになっていた月丸は、大きな屋敷の広い中庭で妻の花瀬と一緒に遊び戯れていた。そのときのことである。裏庭の鶏小屋の辺りから、いつになく騒がしいニワトリの鳴き声に混じって、コンコンとキツネの声が聞こえた。

 「やや、あの声は狐。さてはあの狐の奴、今日もまた我が主の屋敷に忍び込んで来たな。先日あれほど懲らしめてやったのに、もうその痛みを忘れ、再びわが主のニワトリに牙を掛けようというのだな。性懲りもない憎き奴め、最早容赦はせん、今度こそは討ち取ってくれる」

 と言うと、月丸は折から深く降り積もった雪を蹴立て、広い中庭を真一文字に横切って裏庭の鶏小屋へと急行した。狐は月丸が一目散に自分に向かって来るのを見ると、以前と同じように慌てふためいて、今度は表門の方向へ逃げて行く。月丸はその狐を逃すまいと後を追い、表門を駆け抜けようとしたその時であった。ガオオオ!この世のものとも思えぬ猛り声が聞こえ、表門の横合いから急に月丸に飛びかかろうとするものがあった。月丸は、これは一体何者かと、相手を見た。すると、何と月丸の身体より二回りも大きな虎が、目を怒らせ、その牙を鳴らし、刃のように反り返った爪を振り立て襲いかかって来ようとするではないか。その恐ろしさといったらこの上もないものであった。普通の犬であればおそらくその場で恐怖のあまり腰を抜かしたことであろう。しかし月丸は生まれつき勇猛な犬であった。襲いかかって来た大虎に雄叫びを上げながら喰い掛かり、反撃した。月丸は大虎としばらくの間死力を尽くし闘ったが、もとより勝負の行方は明らかで、残念ながら大虎と相打つほどの力は持ち合わせていなかった。無残なことに、月丸は大虎の牙と爪にかけられ、肉裂け、皮破れ、悲鳴を上げ息絶えてしまった。大虎は月丸のその亡骸をその鋭い牙の生えた大きな口に咥えるや庄屋の門を後にし、雪を蹴立てて、己が山奥の棲処の洞へと戻って行った。月丸が果てたその場所には血だまりだけが残され、その血飛沫は辺りの雪の上にあたかも紅梅の花びらを散らしたかのようであった。そして大虎が山奥に向かって残した雪の上の足跡に沿って、月丸の亡骸から滴り落ちた鮮血がはるか山の彼方まで点々と続いていた。

 物陰に隠れていた月丸の妻の花瀬は、夫・月丸と大虎との死闘、夫の果敢な勇ぶり、そしてその最期の様子までの一部始終を目を皿にして見つめていた。花瀬はか弱い雌犬であった。しかも折しも月丸の子を身ごもり、乳房も垂れ、夫に加勢して大虎と闘うなどというわけにはゆかぬ体であった。花瀬は、夫・月丸が非業の最期を遂げるのを目の当たりにし、自ら救いの手を差し伸べることさえできない無念さに、胸が塞がるほど悶え苦しんだ。花瀬が精一杯できることと言えば、甚だしく悲しみに充ちた声を振り絞って頻りに吼え立てることのみであった。悲鳴にも聞こえる花瀬の狂ったような吠え声を聞きつけ、主の庄屋と家人たちは「これは只事ではない、何事かあったに相違ない」と次々と屋敷から出て来た。皆がやって来て屋敷の門の前を見れば、ここ数日降り積もった雪が四方八方に蹴散らされているばかりか夥しい血に染まっている。庄屋をはじめ集まった者たちは「これは如何に」と、大きな獣の足跡に沿い滴り落ちた血の行方を見ると、遙か遠くの山陰を一匹の大虎が行く姿が見えた。大虎は口に獲物を咥えていた。それはどうやら月丸の亡骸であった。

 「あっ、あれは月丸だ!月丸!おまえ、喰われてしまったのか!くそ、もう少し早く気づきさえすれば、おめおめとあの大虎におまえを喰わせなぞさせなかったのに。ああ、かわいそうなことをした。月丸を見殺しにしてしまった」

 主の庄屋は可愛がっていた月丸の思いもよらぬ最期を見て、地団駄を踏んで悔しがったが、なすすべもなく、それは後の祭りであった。夫の非業の死を受け入れられぬ月丸の妻・花瀬は大変に取り乱していた。庄屋の内の者たちは代わる代わる花瀬の悲しみを和らげようとなだめすかしたが、花瀬の心は激しく動揺し、その日から心を乱すようになってしまった。花瀬は朝から晩まで犬小屋に籠もったきり、餌を与えてもなかなか食べようとはしなかった。錯乱した声で吠え散らかし、門を守る役割も忘れてしまった。あれほど忠実であったにもかかわらず、もはや番犬の用さえ果たせなくなった。主の庄屋は花瀬がこうして取り乱してしまった原因を知っているので、その狂おしい姿を見ていっそう気の毒さが募り心を込めて介抱してあげた。だが花瀬の症状は変わらず、次第にやつれていくのみで、体の肉は次第に落ち、骨が見えるほどに痩せこけ、潤っていた鼻先も渇き、この世の犬とは思えぬ心細い変わり果てた姿になってしまった。こうした中、お腹の子の月が満ちた花瀬は産気づき、錯乱した精神と激しい陣痛に見舞われながら一匹の子犬を産み落とした。生まれた子犬はそれはそれはとても端正で立派な茶色の毛の生えた雄犬だった。その子犬の背中には金色の毛が混じり、まったくもって霊妙な光を放っていた。それ故、庄屋はその子犬に「黄金丸」という名を付けたのであった。

 花瀬は手の施しようのない重い精神の病にとりつかれていた上に、さらにそこで出産を迎えるという事態であったから、黄金丸を産み落とすや、張り詰めていた心が一気に緩んでいよいよ重篤となり、明日をも知れぬ命となってしまった。臨終の際、花瀬は庄屋の裏で飼われていた兼ねてから懇意の牡丹という名の牝牛を枕元に呼び寄せた。花瀬は苦しい息をほっとつきながら、喘ぎ喘ぎ、そして途切れ途切れに牝牛の牡丹にささやいた。

 「牡丹さん。ご覧になられるとおり私の容体は甚だ重いのです。とてものこと、最早、命長らえるわけには行かないでしょう。ですから、牡丹さん、私は、ここで、一つだけなのですが、牡丹姐さんにぜひ頼んでおきたいことがあるのです。ぜひ頼まれてください。私の夫の月丸は、先日、あの猛虎の金眸の牙にかかり非業の最期を遂げました。それは牡丹姐さんもご存じのことと思います。あの時、私は夫・月丸があの金眸に殺害されるのを目の当たりにしながら、それに救いの手を差し伸べることなく、見殺しにしてしまいました。犬の身ではありますが、我ながら自分を節操も信念もない見下げ果てた犬だ、と思うのです。私は月丸の妻です。夫が危難に合っていたら、たとえこの身が滅びようと、夫をそこから救い出さずしてどうして妻と言えましょう。救わなければならなかったのは言うまでもないことです。道を行く上で当然行うべきことを知っていたら、必ずこれを実行しなければならないのが世の道理です。それが義を知る獣の守るべき本来の姿なのですから。こういったことは私風情でも普段から心がけて来たつもりでした。けれども、あの時私が命を惜しんだのは、私が普段の私の体ではなかったからなのです。もしあの夫の火急の危難の場に私が助太刀に出、夫とともにあの猛虎と争ったら、われら夫婦ともども殺され、あの虎の餌食にされていたに相違ありません。こうなったとき、誰が私たちの仇を討ってくれるのでしょう。夫と私と私のお腹の子の三匹があの大虎の牙に掛かって命を捨ててしまっては、それこそ元も子もありません。みなさんは夫の危難を救うことは妻が節操を守ることだと言われるでしょう。でも私はあのとき、そうすることは実は逆に妻としての節操を捨てることだと思ったのです。犬死にというのはまさにこのことを言うのだと思ったのです。そう私は固く心に決め、夫が非業の最期を遂げるのを目の前に見ながら、とても我慢できないことでしたがどうにか我慢して、こらえられないことでしたがそれもようやくこらえて、手も足も出さず、夫をみすみす見殺しにしたのです。それはただひたすら私の決めた節操を守ろうとしたからです。その節操とはすなわち夫の仇を討つのは、今私のお腹の中にいるこの子なのだ、この子に仇討ちを委ねるのだ、だから今目の前で最期を遂げている夫のために、私は身籠もっているこの子を産まねばならないのだ、そう思ったのです。そうして今日までどうにか命長らえたものの、不幸にも仇を云々言う甲斐もなく、病気になり床に伏してしまいました。あの時に絶えてしまったはずの私の命ですが、どうにかこうにか細々とつなぎ、やっとのことでこの子を産むことが出来ました。しかし、残念ながらこの子を育てる願いは叶わぬこととなりました。この子を産み育て遂げようとした仇討ち、それさえもできないこの口惜しさ。お姐さん、どうか推し量っていただけないでしょうか。お姐さん、この子をどうかお姐さんの養子として貰っていただき、お姐さんの乳で育て上げていただけませなんでしょうか。この子がひとかどの雄犬に育った時、お姐さん、その時に、私がお姐さんに申し上げる、今これから申し上げることを伝えて頂けませんでしょうか。お前が母のために何かをしたいというのであれば、それは私の夫の仇を討つことであること。お前が自分のために何かをしたいというのであれば、それはお前の父の仇のあの大虎の金眸を討ち取ることであるということを肝に銘じて、お前のその力量を養うこと。この二つこそ、母がお前に願うことである、と。お姐さん、お姐さんへの頼みというのはこの事です。お姐さん、どうぞお頼みします。お・たのみしま・す。たのみ・・・ます。たの・み・・・」

 と、花瀬の声は次第にか細くなっていった。冬の虫の声や草葉の露のように、命というものが脆くはかないのは、犬も人間も同じであった。

3

<朗読>

 
 かわいそうな花瀬は、牝牛の牡丹に息子・黄金丸を頼んだその日の夕暮れ、冥土へと先立った夫・月丸の後を追って死出の山三途の川へ急ぐかのように息を引き取った。主人の庄屋は花瀬の最期を見届けて大変気の毒に思い、その亡骸を棺に納めて、家の裏にある小山の陰に埋葬した。そして夫・月丸と花瀬の名を並べ彫り付けた石をその墓の上に置き、仲のよかった二匹にふさわしく比翼塚の形に整え、懇ろに弔いをした。

 こうして黄金丸は皆死児になってしまった。生まれたばかりの何の分別もつかぬ黄金丸は、花瀬が産み守っていた犬小屋の藁の上から、屋敷の裏の牛小屋へと内の者に移された。花瀬の願い叶い、牝牛の牡丹が養母とされたのであった。それからというもの黄金丸は牡丹の乳を飲み、牛小屋で育てられることになった。成長するにつれ黄金丸は普通の犬よりも優れた骨格や体躯、雄々しい性質を表し始めた。そして立派な体格をした頼みになる犬に育っていった。

 さて、養母となった牡丹には文角という名の夫があった。文角は生まれつき義侠心が深かったので、黄金丸の母・花瀬の遺言を堅く守り、黄金丸の養育に日夜心血を傾け、たくさんいる自分たちの仔牛の中で一緒に育てた。文角は黄金丸に仔牛たちと相撲を取らせたり、競走をさせたりした。こうして黄金丸と仔牛たちとを競わせることで、自然に黄金丸の肉体が鍛錬されるように仕向けたのだった。その成果が上がり、黄金丸の力量は日々目を見張るほど高まっていった。また黄金丸は闘犬の場にも引き出された。黄金丸は相手の犬と咬み合う真剣勝負の中、どうすれば相手を打ち負かせるかを体験し、学び取っていった。養父の文角も黄金丸の成長をはなはだしく喜んで見守っていた。闘犬では大方の相手を制する技量・力量を備えるようになった黄金丸は、今やどこに出しても恥ずかしくない立派な成犬になろうとしていた。時すでに熟したと見た文角は、あるとき黄金丸をそばに招き寄せた。そして、こう伝えた。

 「さて、黄金丸、ここにお坐りなさい。よいか、心落ち着けて、これからする私の話にしかと耳を傾けなさい。実はな・・・、お前は私と牡丹の間にできた子ではないのだ・・・。お前はな、・・・」

 文角はこうして黄金丸の出生、身分、そしてなぜ文角と牡丹の養子となり今日まで育てられてきたのかなどなど、その一部始終を誠実に切々と黄金丸に語り聞かせたのだった。黄金丸は初めて知る自分の素性や皆死児となった経緯に驚き、悲しみしながら、今の今までてっきり実の父親と信じていた文角の打ち明け話に黙って聞き入っていた。父犬の非業の死、その下手人・金眸の非道の下りになるとを歯ぎしをりしながら聞いていたが、母犬の精神の錯乱とその死に到る話、自分への遺言を聞くや怒り心頭に達し、遂に声を上げ、この大虎の悪事を罵った。

 「お養父様からこのようなお話をお聞きいたしましたからには、一刻も早くその大虎の棲む奥山へと急行し、親の仇・その金眸とやらを咬み殺してくれましょう」

 と息巻き、今にも出立せんと勇み立った。文角は、

 「これ。そう事を急くな、黄金丸。暫く」

 と血気に逸る黄金丸を押しとどめ、こう続けた。

 「お前がそのように血に逸るのは理の当然だ。しかし、今はまず逸る心を抑えてここに坐りなさい。よいか、心鎮め、私の話をよく聞きなさい。お前の父母の仇は、大虎の金眸ただ一匹ではないのだ。」

 「えっ!憎き大虎の金眸の他にも仇があると言うのですか、お養父様。それは何奴なのです」

 興奮のあまり血相を変えて立ち上がっていた黄金丸は、そう言うと文角の言いつけどおり再びお側に控えた。

 「よしよし、黄金丸。よいか、よく聞きなさい。金眸にはな、聴水という悪狐の配下がおるのだ。この狐は腹黒く、小利口な悪知恵のよく働く、知能の高い奴でな。すなわち頭の回転が速い。相手の動きを観察しては、あらゆる策略、計略、商略、政略、知略、謀略、機略、軍略、方略、奇策、偽計。陰謀、策謀、知謀、遠謀、通謀、密謀、群謀、共謀、詐謀、宿謀、逆謀、深謀、悪謀。仕掛け、当て馬、からくり、画策、自作自演。こうしたありとあらゆる権謀術数の限りを尽くしてくる。事に当たってはずる賢いばかりか計算高く、形勢不利と見れば、誰あろう情理を尽くして空言をまことしやかに騙り、情状を願い酌量を請い欺き、相手が情に流され、心を許すようなそぶりを一つでも見せ、己が偽言に中りありと見るや、その話の上にさらにまことしやかな話を重ね、出法螺、たぶらかしを以てして、今まで敵であったようなものをもまんまと口車に乗せてただ働きさせるなどは朝飯前のこんこんちきだ。こうしてな、己の利のためなら、まやかし、惑わし、はぐらかし、かご抜け、ごまかし、でっちあげ、ペテン、引っかけ、寝首掻き、くらまし、持ち逃げ、二枚舌、ネコばば、こそ泥、担ぎ上げ、時には利敵、売国さえをも厭わぬ鉄面皮。この世のあらゆる罠という罠、嘘八百、誘惑・魅惑、言い寄り、声掛け、おびき寄せ、そそのかし、流し目、色目、秋波を駆使して相手に一杯食らわし、一儲けしようという、口達者で浅ましく、狡猾なずうずうしい姦物じや。また口だけではないぞ。こやつは転んでもただ起きぬ。芝居を打つ。裏の裏まで読む。狂言を使う。算盤さえ合えば、わざわざ遠くまで足を運び、体を動かすことさえ厭わぬ邪な心を持つ手合いじや。おまえにとって大悪の仇があの金眸とあらば、この聴水こそは小悪の仇と言えるのだ。こ奴はな、黄金丸、今申したように世故に長けた悪狐、ある日、主のニワトリを盗みに入ってな、はからずもお前の父・月丸殿に見つけられ、月丸殿は奴の大切にしていた尻尾を咬み取ったのだ。奴はそれを深く怨みに思ったらしい。その意趣返しをせんと企んだが、自分の力足らぬを知り、かの金眸に頼み入り、いわば虎の威を借りた上に謀をし、あの無残な事件を引き起こしたのだ。ここまで聞けば、黄金丸、誰がお前の真の仇であるのか、もう会得したことであろう。あの虎も仇なれど、まずはあの古狐の聴水。こ奴もお前の仇敵なのだ。だから、いまお前がこれを深く理することなく、ただ感情にまかせて無意味に猛り狂い、あの大虎の金眸の棲処の洞穴へ向かい、駈け入って、奴と雌雄を決して争い、万一誤ってお前が敗るれば、もう片方の仇の聴水へ返報を果たせぬばかりか、おまえのその体はあの金眸のフスマ、餌食になってしまわぬとも限らぬ。これこそ自ら死を求める無謀な振る舞い。聴水の奴めにすれば、飛んで火に入る夏の虫、夏の夜の灯に集まり自ら火に飛び込んで身を焼かれ死ぬ虫と何の変わりがあろうか。また、とりわけ金眸という大虎、こ奴は戦を重ね、場数も踏んで年を重ねた老練な、いつも腹を空かした飢虎。お前は犬、奴は虎。たとえ如何にお前に力があろうと、奴はこれまでおまえが咬み合ってきた犬とは段違いの力を持っておるのだ。決して高を括ったり、侮ったりできる相手ではないぞ。金眸との闘いに勝ち、親の仇を討ち遂げるのは大変な難題、なかなか成しがたいことなのだ。だから、今、仇討ちに向かうのは控えなさい。こうしておまえが出自を知った今のこの今より、しばらくの間、おまえは己の牙を磨き、爪を鍛え、まずはあの小悪の仇、聴水の奴を咬み殺し、その上でさらに力を蓄え、時節が熟し到るのを待ってから、かの大悪・金眸を討ち取るがよい。平凡な雄犬のやるように、血気に逸ってただ蛮勇ばかりを頼みにした軽挙妄動、これこそ意味を持たぬ愚かな振る舞い故、厳に慎めよ。さもなくば力もなしに感情にまかせた分限知らずがやることの末路とはまさにこれ、とて世間のもの笑いとなるばかり。そんな笑いの種をわざわざ撒き散らすこともなかろう。まずはお前の父の無念を晴らし、その仇を討つというその心持ちをこらえ、腹の底に収めた上で英気を養い育て、臥薪嘗胆、必ず来るその日その時をじっと待つのだ」

 頭に血が上り、今にも飛び出さんと膝立てにて、養父の話を聞いていた黄金丸は、ものごとの分別を知った文角の言葉に、はっと我に帰り思いとどまったのだ。黄金丸はやや落ち着きを取り戻して、何やら思いを巡らしていたようであったが、しばらしくしてから文角にこう言った。

 「お養父様お養母様には、このような因縁でお育て頂いていたとは今日の今まで露も存じませんでした。文角養父さん、牡丹養母さん。お二人のことを、実のお父様、実のお母様とばかり信じ、斯様な育ての大恩ある御方々とは露知らず、ただただ今日まで我が儘勝手に振る舞い過ごさせていただいて参りました。このようにふつつかにしておりました私は、まったくもって慮外の無礼者でございました。どうぞこの罪、お許し下さりますよう幾重にもなりてお頼み申し上げます」

 と、黄金丸は養父養母に心からの感謝を籠めて、何度も何度もお礼するのであった。そして、居住まいを正すと、改まってこう言った。

 「存じませんでした過去の出来事につきましては是非を論ずるに及びませぬ。しかし今、お養父様からお伺いいたしました実の父の遭難、わが父の無念はいかばかりでございましょう。私に斯様な仇のあることを承り、それを知りました以上、私は我が道を行く上で必ず実行しなければならないことがございます。これを知らぬふりをし黙って過ごすことは最早できるものではありません。これを知りました以上、お養父様にはひとつお願いがございます。お聞き入れ願えませんでしょうか」

 「願いとは何か、黄金丸。話によってはお前の願いを許すこともあろう。言ってごらんなさい」

 「それは他でもございません。私にお暇を賜れませなんだでしょうか。私、まさに今、これより武者修行へ向かい、諸国を巡り、世に強いと呼ばれる名のあるあらゆる犬と咬み合い、我が牙を鍛えたいと思います。そして一方、私の仇敵の動向に耳目をそばだて、折りあらば、我が仇に名乗りををかけ、父の復讐を遂げたいのです。長年育てて頂きましたご恩へのお返しもしないばかりか、さらにまた、お暇を賜りたいと所望するなど口に出すのもおこがましい以ての外の不義理でございますが、お養父様、我が実の父の仇討ちのためでございます、何とぞお許し頂けませんでしょうか。もし私が、幸いにも、見事、実の父の仇を討ち、復讐をあい遂げ、さらに尚この命を繋ぐことができましたそのあかつきには、お養父様お養母様のご恩に報いさせて頂けるかもしれません。まずはその時まで、お養父様、どうぞ、お暇をお与え下さいまし。」

 と、黄金丸は涙を流しながら、文角を説きつけたのだった。文角は黄金丸のその真摯な態度と言葉を聞いて微笑んだ。

 「そうでなくてはならぬ、よくぞ申したぞ、黄金丸。お前がもし自らそう言わねば、わしの方から武者修行を強く勧めようと心に決めなしておったのだ。思いのままに諸国を巡り、修行を積み重ね、見事、お前の父の仇を討ちなさい」

 文角はこのように黄金丸を激励し、その暇乞いを許した。黄金丸は養父・文角の了承を得、大いに奮起したのだった。こうと決まれば善は急げといわんばかりに、黄金丸は急いで出立の支度をし、用意が済むと再び文角と牡丹の前にやって来てこう言った。

 「見事に父の仇の大虎の金眸と悪狐の聴水の印を上げませぬ限り、私、黄金丸、再びお義父お義母様の御前に立つことはござりませなんだ。」

 と、黄金丸は文角と牡丹にいじらしくも立派な言葉を奏し誓い、養父養母に別れを告げるや、野良犬の身となり、野犬の群れにその身を投じるや、行方定めぬ諸国流浪の武者修行の旅へと歩を進めたのであった。

4

<朗読>

 
 つい昨日まで真鍮の輪を首に掛け、裕福な庄屋の門番をして、何不自由なく過ごしていた黄金丸であった。しかし喪家の犬、すなわち野良犬となった今は、疲れ果てて寝るに、心安らかにして体を横たえる小屋もなく、腹が減っても食う肉もなかった。夜になれば道ばたの小さなお堂の床下に入って雨露を凌ぎ、漸く眠りについても土から這い出て腹の下でうごめく土竜に驚ろかされる身分であった。

 また、やっと空が明るんで昼になれば、魚屋の店先で親爺が捨て寄越す魚の骨を腹の頼みにし、心ない人からは棒で追い払われる始末であった。

 あるときは村の子供が連れた犬と諍いを起こし、またあるときは皮目当ての野犬狩りに襲われ、命からがら藪中に逃げ込む有様であった。

 このようにして、黄金丸は主の家を出てからの数日、山野を渡り、人里で餌を求めるなどしながら旅を続けていた。そんなある日のこと、黄金丸は広い原野にさしかかった。その原は行けども行けども尽きず、日も暮れかかってきた。宿ろうにも木陰さえないので、さすがに心細くなった黄金丸は、どうにかここを横切ろうとひたすら道を急ぐのだった。その日は朝から一滴の水も飲まず、食べ物は一口もとっていなかったので、言わずもがな腹が空いて仕方がなかった。あまりの渇きと空腹に堪えかねて、黄金丸はしばらくの間路傍に蹲っていたが、日もとっぷりと暮れ、冷たい夜風が肌を刺し、また伏せている地面はしんしんと冷え始め、寒さが骨身に染み、最早これまでかと思うほどの厳しさであった。

 「ああ、我が主の家を出てから、至るところで腕に覚えのありそうな犬と争ってきたが、どれもこれも物の数に入らぬ、取るに足りない相手だった。しかし、飢えと渇きには抗えないものだ。こうなっては、この原野の露と消え、烏どもの餌になるやもしれぬ。……里まで出れば、何かしら食い物もあろうが、出ようにもあまりに疲れ果ててしまって、もう一歩も歩けるものではない。ああ、口に出してみても甲斐のないことだがなあ」

 ますます心細くなってきた黄金丸は、こう弱音を漏らして途方に暮れていた。そのときのことである。どこからやって来たのか、突如、一群れの火の玉が黄金丸の目の前に現れた。火の玉は高く舞い上がると、黄金丸の周囲を明るく照らし、ふわふわと空中を浮遊した。それはあたかも私に付いて来なさい、と黄金丸を促しているかのように見えた。

 「やや、きっとこれは私の亡き父様母様の霊魂であろう。さては火の玉となっていまここに現れ、危急に遭っている私をお救いになろうとされているのに違いない。ああ、ありがたいことだ」

 そう悟ると、黄金丸は宙にある火の玉を伏して拝んだ。そしてその燐火の赴くに従って歩み出した。誘われるまま四五町ほど行くと、ふいに鉄砲を放つ音がした。それが合図であるかのように、火の玉はいずこともなくふっと消え失せて、見えなくなった。我に帰った黄金丸は、ここはどこであろうと辺りを見回して見た。そこは寺の門前であった。これは如何に、と訝しく思ったが、朽ち開け放たれた門から中に入ってみると、そこは大きな廃寺であった。今では主も住む人もない様子で、床は落ち、柱はひしゃげ、壁は破れ、蔦が絡まり、朽ち果てた軒には蜘蛛の巣がびっしりと張り付いていた。それはそれは凄まじい荒れようであった。頃はまさに秋闌。屋根に実生した楓が時世時節とばかり深紅に色付いており、その紅葉の間から傾いた寺の鬼瓦が垣間見えた。あたかもその様は信州戸隠山の鬼女伝説『紅葉(くれは)狩』を思わせた。

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 戸隠の荒倉山に都から紅葉という女が流されてきた。暫くは村でおとなしくしていた紅葉であったが、次第に都への思いが募り、生まれながらの邪悪な心と妖術を用い、悪事を働くようになり、村人からひどく疎まれ、鬼女と呼ばれるようになった。紅葉の悪事の噂は瞬く間に千里を走り、国中の無法者たちがその噂を聞き付け、彼女の下に集まって来た。紅葉はそうした無法者たちを束ね、手下とし、荒倉山の鬼の岩屋を根城にし、更なる無法を重ねるようになった。これを許しまじとて、朝廷は平維茂を大将に、征討軍を派遣した。紅葉の根城を探しあぐねた維茂だったが、八幡大菩薩の導きにより、ついに鬼の岩屋の在処を知り、麓に合戦の陣を敷いた。暫くの間、互いは相手の手の内とその力量を探り合って小競り合いを繰り返した。紅葉の妖術に苦戦を強いられた維茂であったが、北向観音より降魔の剣を授かるや、紅葉の籠もった岩屋を急襲した。すると紅葉は妖怪の本性を現し、宙に舞い上がり応戦した。一進一退の激戦の中、突如、戸隠奥院から黄金の光が放射され、紅葉の両目を射貫いたのだった。両目を焼かれた紅葉は地に落ちた。維茂はすかさず、苦しむ紅葉に近寄るや、降魔の剣でとどめを刺した。こうして紅葉と紅葉の残党は一人残らず成敗された。維茂は紅葉の遺体を丁寧に弔い供養し、降魔の剣は戸隠権現に奉納した、というのが『紅葉狩』である。

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 さて、芒が茫茫と生い茂る中に斜めになって倒れかかった石仏があった。その姿を見て黄金丸は、経典にある雪山童子の話を思い出した。

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 雪山童子とは、大昔のとある修行者の名である。印度の山奥で修行を重ねていた童子は、難行苦行に堪え忍びながら悟りを求めていた。天上からその行ないを眺めていた帝釈天は、それが真なる心か否かを試すため、人食鬼の羅刹の姿になって地上に舞い降り、身を隠して童子のそばに近づき、次の二句を声高に唱えた。

  諸行無常(しよぎやうむじやう)
  是生滅法 (ぜしやうめつぽう)
 
| 諸行無常、
| 是れ生滅の法なり

| この世にある何ものも、
| またその運動も、関係性も、何もかもが常に
| 生成・変化・消滅を繰り返しているばかりで、
| そこには永遠で不変なものなどは一切ない。

| これがすなわち「生滅の法」
| (生滅は常に「無常」に帰するという根本原理・原則)
| というものである。

| (Oct.28, 2016 拙訳加筆)
 
 これを聞いた童子は、この言葉に真理ありと悟り、声の主に下の二句を求めた。すると羅刹が姿を現した。童子はその恐ろしい姿を見て驚いたばかりか、羅刹が真理を悟っていることに二度驚いた。人食いが真理を悟っているのに、仏道に入り長年修行を積んでいる己れが悟りを開けぬとは……。童子は、これまでなした修行は、修行のための修行に明け暮れたのみであったことに気づいた。結局は悟りを拱手傍観していただけであり、真理に至るばかりか、近づくことさえもできないことに無駄な時と労力を費やし、終には徒労のみ得られる人生を送らんとしていた自分にただ恥じ入るのであった。童子は先覚者の羅刹に、どうしても下の二句を教えて欲しいと願った。すると羅刹は童子の身を自分の御供に捧げるのであらば、下の二句を教えても良いと言った。童子はたちまち真理を得られるのであらば、只今この場で命を捨ててもよいという覚悟を常日頃から持っていたので、一瞬の躊躇いもなく羅刹の条件を呑んだ。すると羅刹は約束通り、即座に下の二句を詠んだ。

  生滅滅己(しやうめつめつい)
  寂滅為楽(じやくめついらく)

| 生滅を滅し、しかして已 (や)む
| 寂滅をもって楽となす

| だから、此の世で、我と我が身が永遠たらん、不変たらんと欲し、
| それを求めるあらゆる思考も企ても活動も、すべて、
| ただ無常に帰するのみなのです。だからそういったいわゆる、
| 自らの中に生まれ出る煩悩の炎を滅し、
| 己も含め、あらゆるすべてが無常にあるということを照見しなさい。
| 己はもとより生きとし生けるものの生や死は
| みな例外なく無常そのものであり、
| 空であることを看破する境地に至りなさい。
| それが解脱するということであり、然すれば、あなたは
| 此の世であろうと彼の世であろうと穏やかでいられるでしょう。
| ここに至れば、この此の世と彼の世という考えや願いでさえ空であり、
| 常にあなたが求める世界が、これまでも、
| いまも、これからも、変わることなく
| あなたとともに、あったし、あるし、
| これからもずっとあることがわかるでしょう。

| もしあなたが煩悩に迷っているのであれば、
| いわゆる解脱によって覚りを開きなさい。
| 解脱を遂げれば、あなたを苦しめるすべてのことが終わりを告げ、
| その無限の繰り返しから、あなた自らのその肉体からはもとより、
| その心やその考えや、あらゆる執着から、解き放たれることでしょう。
| この解脱により顕れる、死も生もない世界が「涅槃」です。
| そこ(実はここ)は、
| あなたをこれまで、いま、そしてこれからも苦しめるであろう、
| すなわち<生成・変化・消滅>が永遠に繰り返され、
| あなたを日々悩ませ、苦しめつづける煩悩世界とは、
| あらゆる一切、すべからく、なにもかもが異なった、
| 絶対的に安静で、真の楽しみに満ちた境地なのです。

| さあ、今、解脱なさい。求めず覚りなさい。
| そして時を移さず涅槃に至り、寂滅に楽を得なさい。

| (Oct.28, 2016 「雪山偈 (せっせんげ)」拙訳加筆)

 羅刹はこう唱え終わると、今すぐ約束を果たせと童子に詰め寄った。童子は、只今これより己れは死せるので、その後、この身をあなたに進ぜようと羅刹に告げた。童子はそう言うと、後世の人々が自分と同じく悟りに至らぬ無益な修行をし、その一生を徒労に終わらせずに済むようにと、今羅刹に教わったばかりの四行詩を周囲の岩や大木の幹に書き留めると、近くにあった高木によじ登り頂まで至ると、そこから忽ち身を投じたのであった。それを見た羅刹は帝釈天の姿に戻り、一躍身を翻すや、童子が地に落ちる寸前にその体を空中で優しく受け止めると、穏やかに地上に降ろした。そして帝釈天は童子の前にひれ伏し、ひたすら童子を拝するのであった。実はこの雪山童子こそ、釈尊の前世の姿であったという。

———-

 黄金丸は朽ち果てた寺や傾いた石仏を見やって、そんな伝説や経文に書かれていたことを思い出していたが、ふと足下の苔むした石畳に目を遣った。すると何と、そこには鉄砲の弾に身を打ち貫かれたらしく、一羽の雉子が飛ぶことも儘ならぬ様子で、苦しみもがいているではないか。飢えと渇きに苦しんでいた黄金丸は、

 「これは良い獲物があるではないか」

 と、急いで走り寄り、両前足で押さえ付け、早速食らおう、さあ食おう、と牙を立てようとした丁度そのときだった。突然、黄金丸の背後から声がした。

 「おのれ、そのまま動くでないぞ!この野良犬めが!」

 大きな声でそう言い、吠え掛けて来るものがあった。雉子にばかり目が行っていた黄金丸はびっくりした。後ろを振り返って見ると、白毛の猟犬が、今にも黄金丸に飛び掛かって咬み付いてやろうと身構えているではないか。この様子には流石の黄金丸も少々慌てた。そしてこう言い返した。

 「私のことを野良犬だと!何を抜かす、無礼者め。失敬千万な奴だ。おのれこそ、何者だ」

 「何?無礼者だと?無礼者とはおのれ自身のことであろうが。お前が今正に食おうとしていたその雉子は、我が主が撃ち捕ったものである。おのれは我が主の雉子を盗まんとする。言語道断も甚だしい。世の義を解さぬ盗人の山犬が」

 「否。何故、おのれは私が義を解さぬなどとほざくか。この雉子は貴様の主のものではない。この雉子は誰のものでもなかった。今ここで私が拾ったのであるから、他ならぬ私のものだ」

 「何を抜かす。盗人猛々しいとは言うが、このこそ泥め。見たところ、お前、真鍮の首輪をしていないようだな。おのれらの如き性悪で不徳な泥棒犬が多くなったお蔭で、世に野良犬狩りが増え、我ら義に忠実な猟犬仲間まであらぬ疑いを掛けられる始末。お前らには大いなる迷惑を蒙っておるのだ」

 「言うに任せておれば。何と無礼な罵詈雑言の数々。その減らず口、まだ叩くとあらばただでは済まさぬぞ」

 「それはこちらの言う台詞。おのれのような宿無しの野良犬と問答するのも無益なことだ。俺の牙にかかって怪我をせぬうちに、お前が食おうとしているその主の雉子、俺にさっさと帰して寄越し、尻尾を巻いて今すぐここを立ち去れい」

 「返す返すもよくも良くそう舌の回ることだ。折角私が拾い得たこの私の雉子を、貴様のそのくるくる廻る口車に乗り騙されて、おめおめとおのれの手に渡すものか。ましてや尻尾を巻くなどと、この私をあまりに愚弄する言、そこに土下座して、謝しを乞うのであらば命ばかりは取らずに置いてやろう。」

 「う~ぬ。我が主が来られぬ前に、お前のその悪行を見て見ぬ振りをし、なかったことにしてやらんとしたにもかかわらず、おのれはそうした情けも解せぬばかりか、授けてやった忠告も我利に任せて聞き入れず、俺が掛けた温情を悉く無にするつもりだな。くっ、面倒な。お前の如き愚か者にはこれ以上の情けも、問答も無用。早速、こうしてくれるわ」」

 と言うと、その白犬は黄金丸に飛び掛かって来た。黄金丸はその最初の一撃をしゃらくさいとばかり振り払ったが、相手が再び咬み付いて来たので、えい、とばかりに蹴り返し、白犬の喉笛に食い付かんとした。相手もなかなかの腕利きで、身を沈めるや黄金丸の急所への攻撃をすんでのところで頭を反らしてかわし、かわした動きを生かして、黄金丸の前足の腿に食い付いて来た。黄金丸はあまりに腹が空いていたので、日頃ほど勇気が出なかったが、常の犬ならぬ優れた力を身に付けた使い手である。しかし、どうやら白犬も黄金丸に負けず劣らぬ力量を備えた豪傑のようであった。
両雄互いに挑み合い、雌雄を決せんと壮絶な闘いを繰り広げ始めた。その様はあたかも花和尚・魯智深が、九紋竜・史進と赤松林で相争った、あの「水滸伝」の一節を思い起こさせるものであった。

 さて、先ほどより、やや離れた風下の木陰に油断なく身を隠し、黄金丸と白犬の二匹の問答に耳を欹てている一匹の黒猫があった。二匹の犬は互いにいがみ合い、やがて問答を止めると、死闘を始めたのをじっと見ていた。ほぼ互角の力の由、どちらにも他に気を割く余裕が無く、その決着には時が掛かると見透かすや、二匹の闘いの場にこっそりと一歩づつ近づいた。そして互いの犬が相手の出方を窺って、力を尽くして咬み合ったまま、その動きを膠着させる頃合いを見はからっていた。今がその時と見るや、二匹の間隙を縫って、黄金丸が先ほど前足の間から離した雉子をさっと咥えると、脱兎の如き勢いで走り出した。二匹の犬は、互いにそれに気づいたが、お互い力を抜けぬ状態だったので、すぐにそれに応ずることができなかった。二匹共々、

 「ああ、何ということだ!あの泥棒猫に雉子を横取りされた。しまった!してやられた」

 と、咬み合っていた口を互いに緩めたが、逃げ足の速いその猫をたとえ今更二匹で追ったとて、もうそれはすでに甲斐なきことと悟った。雌雄を決せんと今の今まで争い合っていた二匹の犬にこの時出来たことといえば、諍いの元になった当の雉子を咥えた猫が、悠々と築地を越えて視界から消え去るのを、ただ口を開けて茫然と眺めていることのみであった。

5

<朗読>

 
 <「鷸蚌(いっぽう)の争い」という諺がある。互いに無駄な争いをすると、他者に利益を横取りにされるばかりか、最初に争った者が終には共倒れとなるというが、この諺と我等のしていた争いはそもそも意味は異なれども、もし我等が相争わなければ、猫なぞにその隙を突かれ、あの雉子をおめおめ横取りされることなどはなかったになあ>

 黄金丸と白色の猟犬は、獲物の雉子の所有権を巡って対立し、今まで左右に分かれ相争っていたが、その紛争の元になった原因を失ってしまった今、互いにしきりに溜息を吐きながら、黒猫が姿を消した築地をじっと眺めていた。そして二匹ともども、今更それを後悔してみたところで仕方のないことだと思い定めるのであった。暫くしてから、白犬は黄金丸に目を移してこう言った。

 「ところで、そもそもお主は何処よりおいでになられた。何故にこのような寂しい辺鄙な処を彷徨っておられる。先ほどより一戦を交え咬み合ってはみたものの、お主、なかなかの使い手。世にあってこれ程の鋭い牙を持つ腕達者には、某(それがし)、これまで出会うたことがない。咬み合いながらも、これは某では太刀打ち敵わぬ相手、と感服仕っておった。もしやあの雉子をあの黒猫に奪われず、そのままお主と牙を合わせておったならば、某、恐らくはお主に咬み殺され、しかもあの雉子はお主のものとなっていたことであろう。……こう思えば、あの猫は謂わばこの私にとっては命の恩人。おお、桑原桑原、ありがたや。某、危なく一命を落とすところであった」

 と、何度も黄金丸の腕前を褒め称えるのであった。争い相手の白犬が謙虚で真摯な言葉を掛けてきたのを聞き、黄金丸も猛っていた心が鎮まり、襟を正してこう答えた。

 「それは我が身に余る過分なる褒め言葉。そう言われる貴方こそ素晴らしきお手並み。私では到底四つに組み合うには及ばぬお力をご披露賜った。咬み合いながらも、心密やかに貴方の腕前に感服していた次第です。このように覚えのある心正しきお方とあっては、今更、何を隠し立てする必要がござりましょうか。私、名は黄金丸と申す。以前はさる主に仕え、門衛の役回りを仰せつかっておりましたが、心に定めし宿願あり、主に暇乞いをし、今はご覧の通りこのような薄汚き浪々の身となっておる次第。や、しかし、決して怪しい犬ではござらぬ。さて、出来得ればお主のご尊名を承りたい。よろしければお名乗り下されぬか」

 と、黄金丸が尋ねると、猟犬の白犬はうむと言って頷くや、こう答えた。

 「左様でござりましたか。某もすぐに何かしら訳のある御身分と拝察仕っておったところでござった。そのようなこととあらば、お主の勧めに順い、某も名乗らせていただく。お主の目に留まった通り、某はこの地の狩人に仕える猟犬でござる。名は鷲郎と申す。この名が付き申したは、私がかつて鷲を捕り抑えたところ、主が鷲を捕った白犬、ということを淵源とする由。もちろん恥ずかしながら、そこら辺りのものの数には入らぬ一匹ではござるが、狩りの一点ばかりは、少しばかり腕に覚えがござります故、近所の犬どもは皆我が技量を怖れて尾を垂れるので、某自ら天下に我よりも強い犬はそう多くあらじと誇っておった次第です。こう高を括っておりましたところに、お主との出会い、そして一戦。お主と牙を合わせる中、これ程の腕を持つものがおるという事を身を以て知り、つい先ほどまでの我が慢心を痛く恥じ入っておる次第でござる。ま、それはともあれ、さて、今、お主が仰られたところの宿願とは何ぞや、よろしくば某に仔細申されぬか」

 と問いかけた。黄金丸は辺りを見回し、他に聞く者のないことを見定めるとこう言った。

 「それでは貴方にだけは、一部始終、つまびらかに申し述べることとしよう……」

 と言うと、父が非業の死を遂げたこと、自分は牛の義父母に養われたこと、そして出生の秘密を知って、父母の仇の虎と狐に復讐を遂げようと狙いを定めていること、主の邸を出て諸国を遍歴していることなどなど、つぶさに語り聞かせたのであった。鷲郎はときどき感嘆の声を発しながら黄金丸の打ち明け話に耳を傾けていたが、話を最後まで聞くと暫くしてからこう言った。

 「うん。左様であったのか。そういう事と次第とあらば、この鷲郎、及ばずながら貴方に、この腕、お貸ししようではないか。私個人はその金眸に怨みはないが、以前からきゃつはその猛威を嵩に掛け、世の獣という獣をみな虐げているという噂を聞いておった。また奴はそればかりでは足りず、おのれが飢え苦しむ時は山中を出て市中に跳梁し、人間をも襲い騒がすなど我利に基づく悪事の限りを尽くしているとも聞く。機会あらば、私は奴のそのちゃんちゃらおかしく愚にも付かぬ留まるところを知らぬ驕り高ぶり、そのねじ曲がった性根を挫き懲らしめてやろうと、常々心に描いておったのです。しかし、世に名を轟かすほどの力持ち、齢を重ねたその金眸とやら、狩りにおいては如何に天下に並ぶ者なしと自負してきた我が腕前を以てしても、恐らくおのれ一匹では互角の勝負は成しがたいと、かの金眸の無法の振る舞いを聞くにつけ、おさまらぬ腹の虫を無理矢理殺し、歯ぎしりをしながら見過ごしていたのです。今、貴方のお話を聞いて、どうやら貴方とは心の割り符がぴたりと合う仲と察した。どうです。これから先、吾等心を通じ力を合わせ、きゃつに正義の鉄槌を食らわす機を狙いませんか。二匹共に力を合わすれば、いつの日か金眸を討ち斃すという大願を成就できましょう」

 と言った。鷲郎のその申し出を聞くと、黄金丸は勇み立ってこう答えた。

 「おお、これ程頼もしいことがありましょうか。貴方がそのようなお心づもりでおられるのであらば、かの天下に悪名轟く金眸とは言え、何を怖れるところがありましょうか。怖れるに足りません。今から我等二匹、義によって堅い契りを結びましょう。互いに親は異なれど、これから後は深く繋がり合った兄弟となり、互いに協力し合って事に当たりましょう。私は主家を出て以来、金眸を討つためには私より強い者と仕合をし打ち勝ち、力を付けねばこの我が宿望果たすことならじ、と常日頃より心に留め、諸国を巡りながら多くの犬と至る処で咬み合ってきましたが、まだ私と互角に渡り合えた者はなく、歯がゆい思いをしておりました。ところが本日は思いも掛けず、貴方のように実力があり、義に通じたお方に出会えたばかりか、このように兄弟の契りを交わし、心を通じ合える伴侶を持ち得たのです。これ、実に、亡父の引き合わせに相違ありません。先ほど不意に目の前に現れ、道を照らし、私をあなたのいるここへ導いてくれたあの鬼火は、我が亡き父に他ならぬ、と今確信いたしました」

 と言うと黄金丸は感激の余り涙にむせぶのだった。そんな黄金丸の様子をじっと見ていた鷲郎であったが、暫くすると、

 「私は、今、貴方と兄弟の契りを結び、あの大悪、金眸を討とうと志しました。けれど、私には今飼い主がおります。飼い主の元におっては、心に任せての行動は出来ません。私は付けているこの首輪を今捨てます。貴方同様、浪々の身になろうと思います。共に力を合わせ志を遂げしましょう」

 と、言うや、己が首輪を外そうとした。黄金丸はそれを押しとどめてこう言った。

 「ここまで来ればそうお急ぎあるな、ゆっくり参りましょう、鷲郎殿。貴方は私のために主を捨て、首輪を外すという。そのお志は大変ありがたく感謝いたします。しかし、それは義のように見えますが、真の義ではありません。それでは却って恩知らずな、不忠義な犬と言って、訳を知らぬご主人やお知り合いの方々に罵られることやも知れません。今は、何とぞ自ら首輪を外そうというその儀、お止め下さりませ」

 「いやいや、黄金丸殿。その心遣いは無用だ。私は狩人の家に仕え、これまでしっかりと猟の技を磨き、また朝な夕な山野を駆け巡っては幾多の禽獣を捕らえて来ました。しかし、よくよく考えてみれば、これは本当に大きな不義、大きな罪を重ねたものだと思うのです。たとえ主の命とあっても、何の罪もない禽獣を徒らに傷つけるのは罪なこと、このようにいつの日から次第に自ら疑うようになり、近頃では不承不承仰せつかっていたのです。私の積悪は、実はあの金眸に比べても五十歩百歩、そう、変わりはないのです。あなたと共にあの金眸を打ち負かそうという契りを結んだ今、私は主の命とあらば無垢の者の命さえも奪い、罪を重ねねばならぬ猟犬という生業を捨てようと思ったのです。その思いが決心に変わったのです。今日、今、この機を得たのは、あなたにばかりではない、私にも幸いしたのです。私はどうあっても猟師の主より暇を取るのです」

 と言うや否や、今まで首に付けていた主への忠義の輪を振り捨てた。鷲郎はこうして黄金丸にその決心の程を示した。黄金丸は最早それを止めるすべもなく、

 「そのように貴方がお心を定められました以上、私もまた何を申しましょう、更に強く心を定めました。さて、幸いなことに、この寺は荒れ果てていて住む人もなく、私たちにとってこの上なく良い棲まいではありませんか。どうです。この寺を根城としませんか」

 と言うと、二匹は連れ立って寺の中に入って行った。かつては住寺の方丈であったと思しき処に畳が少しばかり腐らず残っていた。二匹はそこを選び、居所と定めたのだった。

6

<朗読>

 
 こうして黄金丸と鷲郎は我利を捨て、共有した条理に順い、共に手を携え目的を達成するために兄弟の契りを結んだ。そしてこの廃寺を棲み処に定めたのであった。もちろん浪々の身となった今は、二匹に食を与えてくれる主もなく、食べるものも思うに任せないこととなった。鷲郎は猟犬という立場を捨てたのだが、背に腹は代えられず、不本意ではあったものの

 「吾等の身とその志のためとあらば、慣れ親しんだ生業だから」

 と言うや、野山に出て猟をし、小鳥を狩って戻って来るのだった。二匹は鷲郎の働きでどうにかその日の糧を得、日を過ごしていた。

 ある日、黄金丸は用事があり一匹で人里へ出た。その帰り、畑中の道を辿り戻って来たときのことである。ふと見やると、遠くの山の端に野菊の乱れ咲く処があり、その中に黄色の獣が横になって眠っているのが目に入った。大きさからすると犬のようであるが、どことなく自分たち犬属とは異なるものらしい。その獣に近づきよく見ると、犬とは異なり耳が立ち口が尖っている。それはまさしく狐であった。その尾は先の毛が抜け落ちてみすぼらしくなっている。これを見て、黄金丸ははっと義父文角の話を思い出した。

 「文角義父さんがお話しくださった聴水という狐。きゃつはかつてわが実父月丸により、尾の尖端を咬み取られたという話だった。この狐の奴、尾の尖が千切れているぞ。こやつ、恐らくあの小悪の狐聴水に違いない。ああ、有り難いことだ。かたじけないことだ。今日このときこの場で巡り遭ったは、まさしく天の恵み。さあ、親の仇、ひと咬みにしてくれよう……」

 しかし黄金丸はさすが道を外すことを好まぬ義を知った犬であったので、たとい仇と言えども眠り込んでいるところを襲うのを快く思わなかった。また、もし聴水ではなく別の無関係な狐であったら無益な殺生をすることになるとも思った。黄金丸は眠っている狐の近くまでそっと忍び寄ると、寝ている狐に向かって一声高く叫んだ。

 「聴水か!」

 眠っていた狐は黄金丸の声に驚いたのなんの。驚きの余り、眠っていたその目も開けぬまま一間ほど跳ね飛んで、南無三とばかり一目散に逃げ出した。

 「おのれ、聴水。決して逃がしはせぬ」

 と黄金丸は大声で叫び、狐の後を追った。追われる狐も逃れるのに一生懸命だった。畑の作物を蹴散らし、人家のある里の方角へ全速力で逃れる。追う黄金丸。

 狐はとある人家の外回りに結い繞らした生け垣をひらりと飛び越えると、家の中へと逃げ込んだ。逃すまじ、と黄金丸もやはりひらりと垣根を越え、狐を追って家の中を走り抜けようとしたその時、家の中では年の頃六歳ほどの子供が夢中になって遊んでいた。黄金丸は誤ってその子供を蹴倒してしまった。するとその子は驚いて「わっ」と言って泣き叫んだ。何事があったかと子供の泣き叫ぶ声を聞きつけ、その親と思しき三十歳ほどの大男が家の裏口から子供のいる部屋へ飛び込んで来た。大男は、今まさに狐を追いその子のいる部屋を走り出ようとした黄金丸を見つけた。

 「あ、こいつ。我が子を襲ったのはお前だな。お前、俺の子を咬もうとしたな」

 と思い見定めると、かんかんになって怒り、そこにあり合わせた手頃の長さの棒を手に取るや、黄金丸に真っ向から「えいやっ」と手心を加えることなく、力任せに打ち下ろしてきた。多くの犬と咬み合い仕合を重ねて来たさすがの黄金丸であったが、大男の振り下ろした棒に肩を打たれた。

 「くっ」

 黄金丸はそう一声上げると、すぐに床にはたと倒れ落ちた。大男は倒れた黄金丸を見るや続けざまに何度か棒を振り下ろした。黄金丸は打ち叩かれ、もはや瀕死の有様であった。大男はおとなしくなった黄金丸を太い麻縄でぎりぎりと縛り上げた。黄金丸が大男に叩かれ縛り上げられている間に、親の仇聴水は命を危うく拾い、何処へともなく逃げ去ってしまった。黄金丸はあまりの無念に絶えかねて歯ぎしりをして吠え立てるばかりであった。黄金丸の心中も事の経緯も知るよしもない大男は、吠え立てる黄金丸を見て、

 「こん畜生、人の子を傷つけておきながら、まだ飽きたらず猛り狂って吠え立てるのか。この憎き山犬め。見ておれ、後で目に物を見せてくれるからな」

 そう言うと、麻縄で縛り上げられた黄金丸を引っ立てて、家の裏手の槐の木にその縄の端をつなぎ止めた。

 不倶戴天の親の仇を思いがけず見いだして仇を討とうとしたのに、その当の仇を取り逃がしたばかりか、その上さらに自分の身は、子供を誤って倒したという些細な罪で縛られ、さらに邪慳にも棒で打ち据えられるとは、と、黄金丸はその無念を痛く悲しんだ。しかし、さすがの猛犬の黄金丸も人間に刃向かうわけにはゆかず、じっとその痛恨に堪えていたものの、あまりの悔しさに流す涙の雫は地を穿ち、口惜しさの余り地団駄を踏めばその繋がれた槐の木を揺れ動かすほどであった。

 さてその頃、義を分かち合った兄弟鷲郎は、里に用事がある、と朝早く出かけた黄金丸が日がとっぷり暮れても戻ってこないので、心配してやきもきしていた。何度か寺の門まで出ては、あちらこちらを眺め廻してみるけれど黄金丸とおぼしき姿は見えない。もしや万一のことだが黄金丸の身に何かが降りかかり、怪我でもしておるのではなかろうか、と気が気ではなくなった。

 「彼はもちろん並々ならぬ犬であるから、むざむざ野犬狩りなどに遭い打ち殺されたりなどせなんだろうが。そうは言うものの心配だなあ」

 と、頻りに黄金丸の身を思い煩っていた。そして遂にその心配が募った鷲郎は棲み処を出、黄金丸の姿をあちらこちら探しつつ里の方角へ向かった。とある人家の傍らを通りすがったそのとき、垣根の中から聞こえてくる苦しげなうめき声が耳に入った。あれ、何か知らん、と耳を欹てて聞いてみれば、何を隠そう、かの黄金丸の声にそっくりではないか。

 「これは、黄金丸の声!」

 と確信した鷲郎は結い繞らされた枸橘の生け垣の破れ目の穴から中に入ろうとした。穴をくぐる鷲郎の腹に枸橘の葉の棘が容赦なく刺さったが、痛みをこらえながらどうにかこうにかくぐり抜けることができた。鷲郎は黄金丸らしき呻き声の出所に向かってこっそり忍び寄った。すると太い槐の木に麻縄でくくりつけられ、弱って蠢いている犬がいるではないか。それは、まさしく黄金丸であった。鷲郎は黄金丸の傍らにさっと走り寄り、抱き起こし、黄金丸の耳に口を当て、

 「おい、黄金丸。気を確かに持てや。俺だ、俺だ、鷲郎だ」

 と、大男に気づかれぬよう小声でそっと呼びかけた。その声は黄金丸に届いたようで、苦しげにようやく頭をもたげ、

 「おお、わ、鷲郎か。来てくれたのか。ああ、嬉しい」

 と、苦しい息で途切れ途切れに返答をした。鷲郎は黄金丸の体をきつく括り付けてあった荒縄を急いで咬み切ると、黄金丸の体の傷を舐めてやった。そして、

 「どんな具合だ、黄金丸。苦しいか。一体全体どうしてこんな有様になったんだ」

 と傷ををいたわりながら尋ねた。黄金丸は鷲郎の暖かいとりなしに感謝しながら身を震わせ、こうなった事の経緯を言葉短かに語り聞かせ、最後に小声で言った。

 「鷲郎、ともかくここをすぐに離れよう。こうしている処を見つかりでもしたら、吾等ともども、命が危ない」

 これを聞くと鷲郎もすぐ合点し、

 「よし。よいか、黄金丸、俺の背中に乗れ。乗れるか」

 「うむ、どうにか。鷲郎、かたじけない」

 「何を言う、そんな話はここを落ち延びてからでも遅くはない。さあ、行くぞ。よいか、しっかりつかまっておれよ、黄金丸」

 鷲郎は深傷を負い動くことさえままならぬ黄金丸を素早く背負うや、先ほど通り抜けた生け垣の穴を抜け、棲み処の寺へと急ぎ戻るのであった。

7

<朗読>

 鷲郎に助けられ黄金丸はやっとのことで棲み処に帰りつくことができた。だが、大男に棒で仮借なく打ち叩かれた傷は重く、耐え切れぬほど痛んだ。黄金丸の右前足の骨は、我が子を倒された恨みが籠められた大男の渾身の一打に砕かれ、生涯、身体の不自由を負い暮らさねばならぬことを覚悟せねばならぬような有様であった。

 「私がこのまま身体に障害を持つ犬になってしまったら、積年の宿願をいつ叶えることができよう、否、できはせんだろう。折角、天の恵みで仇の片破れを目の当たりにしたにもかかわらず、取り逃がした上、経緯はともかく、身体を不自由にし、大願を叶えられぬようになったなどということでは、無念を超えて慚愧に堪えぬ。文角義父さんに合わせる顔がない」

 黄金丸は受けた傷の痛みもさることながら、叶えねばならぬ宿願を成就できない身になるやもしれぬ無念に甚だしく心を痛め、歯ぎしりをしながら悲嘆に暮れて口走った。黄金丸の苦悩に満ちた独白を聞いていた鷲郎は、黄金丸の心中の憂いを推し測り、同情の余り黄金丸と共に無念の涙に暮れるのであった。

 「そう嘆き悲しむな、黄金丸。世の中にはな、『七転び八起き』という諺があるではないか。安静にして養生すれば、お前のことだ、早晩その傷も癒え、その後再び腕を磨き直せば、必ずや、お主と俺、吾らの大願も成就する日が来るであろうよ。俺はお主の身辺におるから、何の心配もいらぬ。大丈夫だ。大船に乗ったつもりでおればよい。よいか、とにかく今は心をしっかりと持って、傷を癒すことが先決だ」

 と、鷲郎は弱音を吐く黄金丸を叱咤する傍ら、激励して気を引き立てながら甲斐甲斐しく世話をした。だが黄金丸の傷は一向に快方へと向かう兆しがない。鷲郎はそんな黄金丸を介抱しつつ、何とかしてやろうにもどうにもならぬという無力感も手伝い、少なからず焦りを抱き始めるのであった。

 ある日のこと、黄金丸だけを寺に残し、鷲郎は食糧を得るために昼前から狩りに出た。ちょうど初冬の頃で、小春日和の空はのどかで、庇から漏れ来る日差しはほかほかと暖かであった。黄金丸は体を起こすと、伏せっていた床を這い出し、陽の当たる縁側の端に坐り、一匹、物思いに耽っていたときのことである。やにわに天井裏から物音がすると、助けを求める鼠の声がけたたましく聞こえてきた。暫くすると、一匹の雌鼠が破れた板戸の方から黄金丸の傍らへ逃げて来るや、座って組んだ後ろ足の間に潜り込んだ。そしてそこから顔を出し、助けを求めるように黄金丸の顔を見上げた。黄金丸はこの雌鼠をかわいそうに思い、左前足の脇の下に挟んで庇ってあげた。さて、この鼠はそもそも誰に追われここに逃れて来たものであろうやと、やって来た方向をきっと睨むと、板戸の陰に身を忍ばせてこちらを窺う一匹の黒猫がいた。この黒猫を見て黄金丸ははたと思い出した。

 「あ、こやつ!」

 過日、鷲郎とあの雉子の所有権を相争った時、二匹の闘いの隙に乗じ、当の雉子をかすめ捕ったあの黒猫ではないか。黄金丸はそれを思い出すや怒りがこみ上げ、病み伏せていた身体のことも忘れ、雌鼠をそこに置くや、板戸の陰に隠れている黒猫に向かって一っ飛びに食いかかった。雌鼠を狙い黄金丸への警戒を怠っていた黒猫は大いに慌てふためいて、板戸の脇の柱に大慌てで攀じ登って逃れようとした。黄金丸は逃げようとする黒猫の尾を咥え床に引きずり降ろすや、抵抗する黒猫を組み伏せ、その喉笛を咬み裂いて、一瞬にしてその息の根を止めた。

 黒猫を成敗して興奮冷めやらぬ黄金丸の前に、かの雌鼠が恐る恐る這い寄って来た。そして黄金丸の前に正座をすると、丁寧に前足を仕え、何度も何度も頭を垂れてこう言った。

 「危ないところを匿って助けていただきました上、ましてや、この猫までをも成敗していただきましたこと、何と申し上げてよいやら言葉もございません。ただただ重ね重ね御礼申し上げるばかりでございます」

 と黄金丸によって生き長らえた喜びとその恩を謝するのであった。黄金丸は雌鼠の真摯な態度と言葉を聞いて、にっこりと笑みを湛えると、

 「あなたはどこにお棲まいか?この黒猫は何故あなたを襲おうとしたのですか?」

 と、尋ねた。雌鼠は正座していた膝を少しばかり黄金丸の方へ躙り寄せてこう言った。

 「はい、お訊ねとあらば、殿様、どうぞお聞きくださいまし。私は名を阿駒(おこま)と申します。この天井裏を棲まいとする鼠でございます。殿様に討たれたこの黒猫は烏円(うばたま)と申しまして、この近辺を縄張りにした破落戸(ごろつき)の野良猫でございます。以前から私に目を付け、想いを寄せ、道にはずれた関係を持とうと強要したのでございます。私には定まった夫がありますので、いくら想いを寄せられてもそれを承知するわけもなく、ただ知らぬふりをし、言い寄られ、付き纏われする度に諦めさせんとつれなくしつつ、ことあるごとにならぬことととてたしなめておりました次第でございます。私からはこのように好意のないことを表したにもかかわらず、この猫は私のことをどうしても諦めることができなかったのでございましょう。先ほど、私ども夫婦の巣に忍び入り、私の夫を無残にもかみ殺したのでございます。そして私を連れ去り、手籠めにしようとしたのです。私はこのままでは我が身も終わり、と余りの恐ろしさに逃げ惑っていたのでございます。とはいえ、兎にも角にも私事にて殿様のお休みになられている枕部をお騒がせいたしましたご無礼の罪、何とぞお許しくださいませ」

 と、目に涙を一杯に溜めながら話をして聞かせた。黄金丸も

 「それはかわいそうにな・・・」

 と言って雌鼠を慰めて、息絶えた烏円の屍を蔑んだ目で見下しながら、

 「こやつ、心底けしからぬ猫であった。こいつはな、阿駒。過日、私が手に入れた鳥をかすめ取ったことがあってな。私もまた、そなたと同じく忘れ得ぬ遺恨を持っておったのだ。年来積もった悪事に天罰が降り、今、その報いを受けてこういう有様になった。私にとっては溜飲の下がる、実に小気味の良いことだ」
と黄金丸が阿駒に物語っていたところへ、狩りで捕らえた小鳥を二三羽咥えて鷲郎が帰った来た。息絶えた黒猫の傍らに佇む黄金丸と、その前に正座する雌鼠がいる有様を見て、鷲郎は、

 「何事があったのだ、黄金丸」

 と尋ねた。黄金丸は事の顛末を洗いざらい鷲郎に語った。それを聞いて鷲郎は事の経緯と成り行きに黄金丸に大いに義も理もありと、黄金丸の成敗を褒め称え、こう言った。

 「ははは、そうか、黄金丸。このような手柄を立てるとはな。うん、お主の身体の傷が完治するのもそう遠いことではなかろう」

 などと言って共に喜びを分かち合った。ほどなくして二匹は、鷲郎が持ち帰った獲物の小鳥と烏円の身体を引き裂いて、その肉を欲しいままに腹に収めた。

 これ以来雌鼠の阿駒は、黄金丸に助けられ生き延びられたことを恩義に感じて、明け暮れ黄金丸の側に傅いて、何くれとなくまめまめしく働いた。黄金丸は恩義を忘れず誠実に努める阿駒の厚意を嬉しく思い、情け深く暖かい心で接していた。さて、もともとこの阿駒という鼠は、とある香具師に飼われていたもので、さまざまな芸を仕込まれ、縁日の見世物に出されていた身であったが、故あって、香具師の小屋を抜け出、この古寺に流れ着き棲み付いたのであった。そういう芸のある阿駒であったから、折につけ黄金丸の枕部に来ては、うろ覚えの舞の手振りをやって見せたり、綱渡りや籠抜けの芸などをして見せた。また昔取った杵柄で、腕は確かではないが音曲を奏でもした。黄金丸は阿駒の見せる種々の芸を楽しみにするようになり、そのお陰で重い傷の痛みも忘れることができたのだった。

8

<朗読>

 大怪我をした黄金丸が床に伏してから早やひと月ほど経った。身体を打たれた傷の痛みはなくなりはしたものの、骨を折られた右前足は癒えるにはほど遠く、歩くのさえやっとであった。

 「このまま傷が治らず足が効かないようになってしまったら、生まれ持った大丈夫のこの私とは似ても似つ付かぬものになってしまう。そうなってしまっては父母の仇討ちなどできようはずもない。今のうちによい薬を手に入れ、この傷を癒さなければ、元の私の姿には戻ることはできまい」

 黄金丸は右前足の怪我の治りがはかばかしくなく、思うように動かぬことをしきりに心配してこう言うと、あちらこちらと良薬を探して尋ね歩いていた。ある日鷲郎が慌ただしく帰ってきて、黄金丸にこう言った。

 「おう、黄金丸、喜べや。今日な、出先でな、よい医者がおるという噂を聞いて来たぞ」

 黄金丸は鷲郎に向かって膝を進め、矢継ぎ早にこう言った。

 「それは何と耳よりな話。で、その医者はどこのどなたなのだ、鷲郎」

 これを聞いて鷲郎は、

 「うん、あのなあ、今日、俺は里に出て、あちらこちらうろついておったのだが、そこで古い仲間とばったり出くわしたのだ。その昔のよしみが言うにはな、ここを出て南の方へ一里ばかり行ったところに、木賊ヶ原という所があってな、そこに朱目の翁(あかめのおきな)という名のなかなか立派な兎がおるそうだ。この翁はな、若い頃、芝刈りの爺さんが留守の間に悪狸に妻の婆さんを殺められ、しかも殺された婆さんは鍋にされた揚げ句、狸の奴、婆さんになりすまし、帰って来た爺さんに婆さんの鍋を食わした事件があったろう。うん、そして悲しんでいた爺さんの仇討ちに手を貸して、見事仇の狸を海に沈めた兎がおった話を知っておろう。あのときの殊勲の兎がこの翁だそうな。この翁はな、その時の功を認められて、月宮殿にてかの嫦娥より霊力あらたかな杵と臼を拝領し、その臼杵を用い種々様々な薬を搗いては病に伏せるものに遍く施し、今は豊かに世を送っておるという。この翁の所へ行き、良薬を賜れば、病や怪我で苦しんでいる獣で治らぬものは大方ないということだ。実はその昔のよしみもな、先日、里の子供の投げた石で打たれて、左後脚に怪我を負ったそうだ。で、その傷を治すため、その翁の調合した薬を手に入れて処方したところ、傷はみるみるうちに治ったそうだ。ということだから、俺は早速その翁の所へ出向いて、薬を手に入れて来ようと思ったのだが、はて、ただ床に伏せたまま病と闘うまでには弱ってはおらぬばかりか、一刻も早く傷を癒して仇を討たんと諸処尋ね歩くほどの気根のあるお主のこと、俺がどうこうするよりも、お主自らその翁の許へ出向き、これこう、このようにと翁に親しくその傷を見せ、翁の眼識をもって処方を受けた方が、なおいっそう頼りになるであろうと思ったので、飛んで帰って来たのだ。お主、体を動かすのは甚だ苦しいではあろうが、少しも歩けぬという程ではなし、どうだ、気分が良くば、試しに明日にでも行って診てもらってはどうだ」

 と言った。この話を聞き黄金丸は大層喜んでこう言った。

 「それは実に嬉しいことだ。そのような立派な医者があるということを、本日今まで知らなかったというのは誠に間の抜けたことであったな。そういうこととあらば、明日早速出向いて薬を求めることにしよう」

 と、黄金丸はクラゲの骨を得たような、あり得ないような話を聞いて嬉しくてたまらなかった。

 翌朝、黄金丸はまだ東の空も明けやらぬ前から起き出し出立し、教えられた道を辿って行くと木賊ヶ原に出た。しばらく行くと櫨の木や楓などが美しく様々に色づいた木立の中に、柴垣を結いめぐらした草庵があった。丸太の柱に木賊で軒を作った質素な門があり、竹の縁側が清らかで、筧の水音も澄み切って聞こえる風情は、いかにも由緒正しい獣の棲み処らしく思えた。黄金丸は柴門の前に立つと、声を高めて来訪を告げた。

 「頼もう。頼もう。主殿はおいでか」

 すると家の中から声が帰って来た。

 「どなたかな」

 それは朱目の翁の声であった。声に続いて、耳が長く毛が真っ白で、眼光の鋭い赤い目をしたいかにも一見ただものではない兎が姿を現した。黄金丸は柴門にあって、まず恭しく礼をすると、翁に自分の傷について話し、薬の処方をお願いしたい旨を伝えた。するとその翁はすぐ了解し、黄金丸を草庵に招き入れた。翁は診察室に黄金丸を通すと、まずは黄金丸の傷を診て、あちらこちら動かしてみたり触ってみたりした後、何かしらん薬を擦り付けた。診断と薬の処方が終わると翁はこう言った。

 「私があなたに施したこの薬は、畏くもかの嫦娥様直伝の霊法に基づき煎じたもの。たとえいかに難しい症状であろうと、すかさず治癒に向かうものである。その霊験はあらたかで、その効力は神のなせる技である。あなたの傷を診たところ、施しが遅れたのでやや症状は重くはなってはおるが、今晩までには完治するであろう。これで今日の処方は終わったので、明日またここにおいでなさい。すこしばかりあなたに尋ねたいこともあるでな・・・」

 黄金丸は大いに喜び、帰り支度をすると分かれを告げ、草庵を出た。

 さて、治療を終えて古寺へ帰る道すがら、とある森の中を横切ろうとしたときのことである。生い茂った木立の中より、ヒュイッと音を立て、黄金丸目がけ矢が射られた。

 「ぬ、これは!」

 と、流石、黄金丸、とっさに自分が射られたのに気づくと身を捻るや、飛んできた矢の矢柄をハッシと牙で咬み止めながら、矢が放たれた方角をキッと睨み付けた。すると、そこには二抱えほどもあろう大きな赤松があり、見上げた辺りの幹が二股になった処に一匹の黒猿がいた。黒猿は左手に黒木の弓を持ち、二の矢を続けて射ようと右手に青竹の矢を採り、弓に番えているところであった。

 黄金丸に睨み付けられ、その眼光の鋭さに怖じ気づいたのであろう、黒猿は番えた二の矢も放たず、慌ただしく枝に走り上るや、梢伝いに木の間に隠れ、その姿を消してしまった。

 さて、翌日になると不思議なことに萎えていた足は、朱目の翁が言ったことに少しも違わず、見かけの上も、さらにいろいろと動かしてみても痛みも何もなく、完く元通りの足に戻っていたのであった。黄金丸は小躍りして喜んだ。さて、取りも直さず急いで礼に行こうと、少しばかりではあったが、寺にあった豆滓(おから)を携え、朱目の翁の草庵に出向いた。翁に招き入れられると黄金丸は全快した旨を伝え、言葉を尽くしてその喜びを表した。

 「私は主のない浪々の身分であり、思うに任せない暮らしをしております。翁にはこのように体を治していただきながら十分な返礼をすることができぬのですが、ここに携えましたこれは今私にできます心ばかりの御礼です。どうかお納めください」

 と言って、持参した豆滓を差し出した。朱目の翁は喜んでこれを受け取ってくれた。しばらくしてから翁は黄金丸にこう言った。

 「昨日、あなたに少々尋ねたいことがあると申したがのう、実は大事なことで、他でもないのだ」

 と言うと、打ち解けて話していた姿を整えて、続けてこう言った。

 「私は長い年月を経て、いくらか神通力を得ることができるようになったので、獣の顔の相を見て、自ずからそのものがどのようなものであるか、ずばり、分かるようになった。わが眼識に狂いはなく、十に一つの誤りもない。今、あなたの顔の相を見ると、どうやら世にも稀な名犬と思え、しかもその力量は万獣に秀でていると思えるから、遠からずして、抜群の功名を立てることであろう。私は、こうしてこの草庵に居て数多の獣と対面してきたけれど、あなたのような獣にはこれまで会ったことがない。どうやらあなたは由緒あるご出自のようであるな。どうでしょう、あなたのご身分をお聞かせていただけぬか」

 黄金丸は少しも隠し立てすることなく、自分の素性来歴を語った。朱目の翁は黄金丸の話を聞いていたが、はたと膝を打つとこう言った。

 「おお、そういうことであったか、なるほど会得した。獣というのは胎生であり、多くは雌雄数匹を孕んで、一親一子という例はほとんど稀である。お生まれの話を聞けば、あなたはただ一匹で生まれたということだから、あなたの力は五、六匹の力を兼ね備えているということになる。しかもそればかりか、牛に養われ、その乳により育まれたということであるので、さらにまた牛の力量も身に受けたということ。ということであればなるほど、そんじょそこいらの猛犬の比にならぬわけだ。ところで、何故にあなたほどの敏捷で猛きものが易々とそのように大怪我を負うたのです」

 と訝し気に尋ねるのであった。

 「これにはいささか深い訳がございます。もともと私は、その大悪の虎金眸と小悪の狐聴水を不倶戴天の仇として狙っており、常に油断なく過ごしておりました。しかし去る日、悪狐聴水を、帰路の途上で偶然見つけましたもので、正々堂々と名乗りをかけて討とうといたしました。ところが敵ながら聴水の奴め、私から逃れながら謀をし、人家に逃れ、その家人の力をを以てして己が力のなさの扶けにしようとしたのです。私はその計略にまんまと嵌ってしまったのです」

 このように、黄金丸は大怪我をした時の情況をつぶさに語り、続けてこう言った。

 「あの憎き聴水の奴め、もしまた目の前に現れたらそのときにこそ一咬みにしてその息の根を止めてやろうと、明け暮れ随所に目を配っておりますが、考えてみれば、私が名乗りを上げたことで、命を付け狙われていることを知らしめてしまったがために、奴も用心して、よもや私のいる里方には出て来はせんでしょうから、遺恨を返す機会も手がかりもなく、ただ無念なまま日々を過ごしているのです」

 黄金丸は、こう言い終えると、あまりの悔しさに歯軋りをするのであった。朱目の翁は黄金丸の話に頷いて、

 「あなたは実に正々堂々としておられる。それゆえにこそ無念であろう。しかしそうではあっても、黄金殿、あなたが本当にその聴水を討とうというお心であれば、私に奴を誘い出すよい計略がある。もし奴がこの手に乗って来なかったとしても、試してみてはいかがかな。ま、おおよそ狐や狸の類の性質というのはあくまで悪賢く、またどこまでも疑い深いというのが相場でな。こちら側も中途半端な謀では、相手の警戒心を解き、捕らえるには遠く及ばない。しかし、だ、好事魔多し。好きなこと、こういうことに関してはたとえ君子であろうと迷う、という。狐が好むものを以って誘き出し罠に落とす。聴水も狐。さもあらばあれ、それほど難しいことでもあるまい」

 と、言った。これを聞いて黄金丸は喜んで、

 「なるほど。で、翁、その、狐を誘い出す罠というのはどんなものなのでしょう。以前から聞いておるのですが、私はまだこの目で見たことがないのです。どのように作ればよいのでしょう、是非お教えくださらぬか」

 と尋ねた。翁は黄金丸の願いに応えてこう言った。

 「罠はな、このようにしてな、ここはこうして、そこはこうして拵える。よいか。そしてな、それに狐の好む餌をかけて置くのだ」

 と、教えた。

 「なるほど、仕掛けは飲み込みました。で、その最後の「狐の好む餌」というのは一体?」

 黄金丸がこう言うと、翁は、

 「それはな、鼠の天ぷらじゃ。太った雌鼠を油で揚げ、その罠に懸けておくのだ。そうすると、狐の奴らは大好きな、その得も言われぬ香気で心も魂もすっかり呆けてしまい、我を忘れ、大方は掛けた罠に落ちるという。これは狩人がよくやる手でな、かの狂言「釣狐」にも採り上げられているほど。どうじゃ、あなたはこれからお帰りになったら、まず今申した通りに罠を掛け、奴、聴水が来るのを待ち構えてみてはいかがか。今夜あたり、その狐、その雌鼠の天ぷらの香気に誘き寄せられ、浮かれ出て、お主の罠に落ちるやも知れぬぞ」

 と黄金丸に丁寧に教えた。黄金丸は、

 「これは良いことを聞きました。ああ、良いことを聞いた」

 と言うと、何度も何度もその嬉しさを表したのであった。狐を陥れる罠の話が終わっても、二匹の四方山話は尽きず、次第に時が過ぎ、日は山の端に傾き、塒に帰る烏の群れの声がやかましく聞こえる時刻となった。

 「やや、これは思いも掛けず長座をしてしまいました。どうぞお宥しください」

 と黄金丸は会釈し、翁の草庵を後にした。

 さて、我が家を目指して帰る道すがら、昨日と同じ森の中の道を辿り、例の木の側を通り掛かると、やはり樹上より矢を射掛けてくるものがあった。今度の一矢は黄金丸の肩を擦ったが、黄金丸はやはり流石の名犬。思わず身を沈めその矢をいなすと、大声で樹上に向かって叫んだ。

 「おのれ、昨日に続き今日も狼藉をなすか。引っ捕らえてくれよう」

 と、矢を放った木の元へ走り上を見ると、やはり昨日の黒猿がいた。黒猿は黄金丸の姿を見ると、やはり昨日と同じように木の葉の中に身を隠し、梢を辿って逃げ失せた。

 「くそ、私に木を伝う術があれば、すぐに追いかけて捕らえてやるものを・・・。憎き猿め」

 と思うばかり。猿が逃げるその姿を見ながら黄金丸は、

 「しかし、またどうしてあの猿の奴、よりによって一度ならず二度までも私に射掛けて来たのであろう。我ら犬属と猿属とは古くから仲の悪いものの譬えに上げられるほど。互いに牙を鳴らし合う犬猿の仲ではある。が、どうして私だけがあの猿に執念深く狙われるのか。狙われる憶えは終ぞないのだが・・・。よし、明日またここを通り掛かった折、再び奴が出ようことがあらば、引っ捕らえてその辺の理由を糺さねばならぬな」

 と黄金丸は独言を言うと、不意打ちの狼藉、しかも飛び道具を使う卑怯に対する怒りを抑えつつ、その日は帰途に着くのであった。

 さて、黄金丸を襲ったこの黒猿の正体とは。
 聴水を誘い出そうという罠の行方は。
 これにて第一巻の終わり。続きは第二巻にてのお楽しみ。乞うご期待あれ。

9

<9-1 朗読>

 こうして黄金丸は、帰途に着いた。ひたすら急ぎはしたものの、古寺まではかなりの道のりがある上に、見知らぬ黒猿に突然射掛けられるという狼藉に遭い、しかも逃げたその黒猿の行方を追うなどしたために思いの外時間を費やしてしまったのだった。日はとっぷりと西山に沈み、千枚田に夕月が明く美しく輝いて映る時分になってから、漸く寺に辿り着いた。

 さて、鷲郎は日暮れの頃から古寺の門に凭り掛かって、まだ帰らぬか、もう帰る時分だと黄金丸の帰りが遅いのを心配してやきもきしながら待ちわびていた。門の前に通ずる廃道の彼方に黄金丸の姿を見つけると鷲郎は凭れていた柱からすぐに身を起こし、黄金丸を迎えに走って行った。

 「おお、黄金丸。今日はどうしてこんなに遅くなった。帰りを待っていると思いつつも、我が儘に帰って来る身の方は軽かろうが、心配して今か今かとその帰りを待つ身の方にすれば、どうしたのだろう、何かあったのではなかろうかとやきもきするものだ。お主が過日受けた傷の重さを知っておるから、本来心配して待っておったのだぞ。待つもののそういった心中を察してくれや。お主が悪狐の計略に落ち、大男に棒で叩かれ半殺しの目に遭ったあの日以来、ひどい傷で苦しんで臥せっておったことなど種々様々頭の中に浮かんでは消え、もしや、よもやまた、もしだとしたら、すぐに探しに行かねばならぬか、いやそんなことはあるまいなどとあれこれと頭を巡らしておったのだ。ゆったりした心持ちで待ってなどおられなかったのだぞ」

 黄金丸は
 <ははあ、鷲郎の奴、折角心配して待っておるのに、待つ身のことなどを忘れ、体が元に戻ったのを良いことに、この私が自由奔放、我が儘勝手なことをしていたと勘ぐって、不平たらしいことをうざったらしくくどくど言っておるのだな>
 と思った。黄金丸は

 「ははは、そう恨み言を言うな、鷲郎。私の顔をよく見ろ。私は何も体が元通りになったからといって、里に出て遊び惚けていたなどというわけではない。はははは」

 と言った。鷲郎は少し疑った目をして黄金丸の顔をのぞき込んだ。黄金丸は真面目な顔になってこう言った。

 「今日はなあ、あの朱目の翁殿に引き留められ思わず話が弾んでな。気がつけばもう日が傾き始めていたのだ。これはいかん、これでは寺に戻るのが遅くなってしまうと気が付き、急いで帰途に付いたのだが、これ程まで遅くなるとは夢にも思わなんだ。お主が心配して待っているのを知りながら待たせておけばよいなど、そんな考えは微塵もなく、ただただ急ぎ戻ることだけを考えて、今やっと辿り着いたのだ…」

 黄金丸はこう言って、鷲郎に詫びた。鷲郎もこれを聞くとそれ以上は咎め立てはしなかった。暫くすると鷲郎は、

 「そうか。俺は少し思い過ごしをしていたようだな。ははは。さあ、寺に入って飯にしよう。腹が空いたろう。な、ははは」

 とやや複雑な心境を笑いに紛らわし、黄金丸を寺に引き入れると、二匹打ち揃って鷲郎が用意してあった夕飯を平らげるのだった。

 食事が終わり暫くすると、黄金丸は鷲郎に今日の出来事を話し始めた。まず、朱目の翁の庵で翁から聞いた話、狐の罠のことなどを鷲郎に詳しく語った。

 「と、折角翁から聞いたこのような良い計略があるのだから、時を移さず、今すぐあの聴水の奴を誘き出して捕らえてやろうと考えておるのだ」

 と黄金丸が言うと、その話を聞いて鷲郎は頷きながらこう言った。

 「狐を釣るのに鼠の天ぷらを使うという手だが、俺は狩人に仕えたことがあるから、その罠の作り方は以前から心得ているが、さて、その罠に懸ける餌のこと。その餌にする雌鼠がおらぬのが問題だな」

 鷲郎はこう言いながら天井を見上げた。そして声を少し低くすると黄金丸にこう言った。

 「お主が以前自ら扶けてやった、あの雌鼠の阿駒な。この狐釣の餌にはあの阿駒がちょうどぴったりなのだがな。しかし、阿駒は最近我等に懐いて、とても忠実に仕えているから、狐釣に雌鼠の餌が必要だからといって、我等の牙に掛けて無残にも殺し、その罠の餌に供するなどということは、情けも容赦も知らぬ山犬ならいざ知らず、仮にも義というものを知っておる我等には無理な話。どうしてもしなければならぬということであっても、誠に忍びなく、とてもなせるものではない」

 鷲郎がこうつぶやくと、黄金丸は、

 「左様。まったくお主が言う通り。私も先ほど帰りの途次、あれこれ考えておった折、阿駒がおったなあ、と一統最初に頭に浮かんだのだ。しかしなあ、私は阿駒が我が元に必死に逃げて来たので助けてやったのだが、今、こういうわけだから預かっていた命を渡して貰おう、あの時無くしたはずの命なのだから、それを今私に差し出せなどというのでは、いかにも助けてやった恩を着せるようなもので、私としてはまったく面白くも、決して快くもないことだし。まあ、阿駒はそういうことだから、まずは阿駒が雌鼠だということを忘れ、違う別の雌鼠を探して捕えるということにしようではないか」

 と、言い終わるか終わらないときのことだった。突然、

 「あっ」

 と叫ぶ声がして、鴨居の辺りからはたと転び落ちて来るものがあった。黄金丸と鷲郎は、

 「はっ。何や」

 と膝近く坐していたところを、反射的にさっと左右に飛び退き身構えるや、転び落ちて来た小さなものをきっと睨み据えた。それが何か二匹はすぐに分かった。それは、阿駒、であった。今まさに噂をしていた雌鼠の阿駒であった。篤と見れば阿駒はその口から夥しい血を流している。

 「あ、阿駒!」

 黄金丸が叫んだ。

 「あ、阿駒!おお、阿駒!…、ああ、どうして。何があったのだ」

 鷲郎はこう言いながら、すかさず阿駒の傍らに行くや、口や首から大量の血を流す阿駒を抱き起こした。黄金丸もすぐに鷲郎が阿駒を抱える向かい側に膝を立てて坐った。鷲郎と黄金丸は驚き合って顔を見合わせた。黄金丸は鷲郎の両前足の中で血を流している阿駒に目を落としじっと見つめた。鷲郎も阿駒に目を落とし、あれこれと傷を調べてみた。阿駒は首の急所が裂け、そこから激しく出血していた。それは二匹の手に負えるような傷ではなかった。鷲郎は阿駒の首の出血を前足で押さえて止めながら体を抱き寄せて、瀕死の阿駒に尋ねた。

 「おお、阿駒、大丈夫だ。傷は浅いからな、しっかりせい。ああ、可哀想に…。阿駒、誰にやられた?猫か?また猫の奴に追われたのか?いや、鼬か?鼬にやられたか?くそっ、もしそうであらば、まだその辺りにおろう。こは。おい阿駒、しっかりせい。お主の仇、俺が必ず討ってやるぞ、誰にやられた?しっかりしろ。おい、阿駒!」

 哀れな阿駒の姿をいたわりつつ、鷲郎はこう励まし問うた。すると阿駒は半ば目を開け、苦しい息をしながら、鷲郎の問いに途切れ途切れにこう答えた。

 「い…、いいえ…、鷲…鷲郎…様…。そうでは…そうではないのです…。猫にも…追われてはおりませぬ…。鼬にも…襲われてはおりませぬ..。私が…私が…自分で、こう致したので…ございます」

 苦しい息をしながら阿駒がこう答えたので、鷲郎は驚いて、

 「じ、自害か?どうして…。どうして、斯様な早まったことをした?何故に…?おい、阿駒、理由を、わけを申せよ。何故じゃ、聞かせよ。おい、おい、阿駒、聞かせよ」

 阿駒の命が最早残り少ないのを知った鷲郎は、再び忙しく阿駒に自害の理由を問いかけた。阿駒は鷲郎の胸で支えられながら、天井を向いたまま、はらはらと涙を流しながらこう言った。

<9-2 朗読>

 「わ、鷲郎様…、ああ、お優しい。…黄金…丸様…も。ああ…、何とご立派で…情け心がお深く…お優しいお殿様方…。こうしたお方々…の…ためになるのであらば…、私は…私は…何の私の命など…この命などどうして捨てることを…惜しむはずがございましょう…や。…私が…こうして自害をいたしましたのは…黄金の…殿様の、黄金丸様の…ご用に立てれば…そう願っての…ことでございます…」

 鷲郎は、これを聞くと、はっとしてこう言った。

 「や、やや、さては今我等がしていた話を…」

 黄金丸も驚いて言った。

 「お前は我等の話を残らず…」

 阿駒が答えた。

 「鴨居…の上で…聞いて…おりました。…私が、私が去る日、烏円(うばたま)の、あの烏円の奴に…無理矢理の…片恋慕の…始末を…しかけられました…あの折に、私は…私は…奴の爪に掛かり…、終わって…しまっていたはずの…この命…、この命…を、黄金…様のお情けで…、無きはずの…この…命を…今日まで…繋ぎ止め…て参ったので…ございます…。あの時、私の我が夫は烏円のために非業の死を遂げました。残された、残った私は、天涯孤独の身、あの時より頼るものなき、この世にあってたった一匹の身となってしまったのです。長年生活を共にし、深い愛情で結ばれ、互いに信じ合い、力を合わせて暮らしておりました。悪名高き「石見銀山枡落し」、あの石見国の銀山の毒薬を盛られた一度落ちたら逃れられない鼠捕りの仕掛けでも、あの重い板で我等を圧し殺す「地獄落し」の仕掛けなど何ほどのことがございましたでしょう。たとえこうした罠に掛かかり、生きたまま石油の火の中投げ込まれようと、罠の檻ごと盥の水に浸けられようと、わが夫とは死なば諸共、手に手を取り合って時を移さず一緒に死のうと盟い合った仲でございました。そんな恋しい夫に先立たれ、私一人残っているとは…、何の誓いか…。最早、恋する夫なくして、何をこの世の楽しみに生きて参ればよいのか、私は、私は、殿様に芸をご覧いただいてお楽しみいただいた後、一匹になると、ただただ虚しく、涙に暮れていたのでございます。生きていて何の甲斐もなく、新たな生き甲斐など何も見つけることもできない我が身でございました。今日まで命ながらえたばかりか、傅かせていただいておりましたのも、私の、我が愛しき夫の仇、あの烏円の奴に夫が殺められたその時を移さず、すぐに黄金さまに討ち取っていただきましたことへの報恩のためでございます。黄金様には、御心お優しく、その情けにほだされ長居をさせていただきました。このようなご恩ある黄金様のためとあらば、いつの日か、いや早晩、必ずやこの命差し出す機会があろう。そして、その時にはいつでもすぐにこの命、差し出す覚悟で過ごそうという一心でお側に仕えさせていただいて参ったのでございます。そして、今宵、思いもよらず、お殿様方の物語りの漏れ来るのを鴨居の上で聞くことができました。ああ、嬉しい。今夜こそ、やっと思いを果たす時が来たのだ、ご恩に報いることができるその時が、今、まさにその時がやって来たのだ、と。お二方のお話を耳に入れながら、一人密かに幸せな心持ちに満たされておりました。しかも狐の罠の仕掛けに必要なのは雌鼠。左様ということであれば、すぐに私なぞの命はいつでも差し出しますものを、私に牙に懸けてはならぬという深いお情け。そしてどうにか私ではない別の雌鼠を手に入れようというお話でございました。私に牙にかけるなど決してしてはならぬ、という。ああ、何とお優しい。私はそのお話をお聞きしましたので、ここぞ幸せの骨頂と、ならば、別の雌鼠などお探しになる必要もない、私が今ここで、すぐにそれに使ってもらおうと、自ら思い定め、斯様に自ら喉を噛み切ったのでございます。ご恩に報いて捨てるこの命、露も惜しいものではござりませぬ。今、我が愛する夫は私に先立って死出の山に登っているところでございましょう。死出の山の峰に生えている若草の根を囓って、きっと、私の来るのを待っているはずでございます。これから夫の許へはせ参じて、一緒に参ろうと思います。きっと手を上げて喜んで迎えてくれるはずです。夫が待っているのです。ああ、早く追いつかなくては。ああ、楽しい。ああ、嬉しい。早くあの人のところへ行きたい。」

 と次第に細る声で言った。そして阿駒は力を振り絞りこう繋いだ。

 「命絶えて後残りましたこの身は、お殿様方、どうぞ思し召しのままどうにでもお使いください。仰られた天ぷらというものにしてください。私の体は黄金様の仇、お殿様方の敵、あの悪狐聴水を討つ御用にお使いください。ああ、嬉しい。どうぞどうぞお使いくださいまし。私は、私は日頃から大黒天に一心に願って参りました。その甲斐あって、思い通じ、今、このように、私の体はご恩ある黄金様の御用に立つこととあいなりました。大黒様に感謝します。ああ、あなた、これで良かったのですよね、ね、あなた。ああ苦しい。あ、あなたすぐ行くわね。待ってて。ああ、お殿様方、これでおさらばです。私幸せなの。ありがとう。ありがとう。私の骸、使ってくださいね。さようなら。さようなら」

 と臨終の言葉を言うと、鷲郎の両足の中で、命の残り火を使って、鴨居から転げ落ちて乱れた身形を整えると、西の方角に向かって双手を組みぐっと眼を閉じるや、ふと安らかで幸せな顔をした。阿駒は死出の山で待つ夫の許へ走って行った。その最期は誠に健気で潔く美しい姿であった。

 黄金丸と阿駒を抱きかかえた鷲郎は、阿駒が苦しい息の中で語る自害の理由を最初から最後まで神妙に聞いていた。阿駒が合掌して息を引き取ると、黄金丸はまず溜息をついた。そしてこう言った。

 「ああ、阿駒。鼠の中にはこんなに健気げで、義を知り行える立派なものもあったのだな。
『国に盗人、家に鼠』、つまり物事には、大小、規模の差はあるものの、必ずそれを害するものがその中にひそんでいる、という譬えがあって、鼠はこういう卑しいものとして憎まれ蔑まれておるが。阿駒はこうした譬えに上がる鼠とは違って「恩」を感じる力を持っておったし、道を行く上で知ったことを、行わなければならぬ時に出会えば、時を移さず必ずそれをしなければならぬ「義」というものを躊躇なく見事、実行した。勇敢だったなあ。こう考えると『国に盗人、家に鼠』という諺の真偽を疑わなくてはならぬな。また。忠義というもの、恩義というものが何たるかを知っていた鼠の阿駒の殊勝な生き様と最期を見、あの猫の烏円の如き品性下劣な奴、また『猫は三年飼っても三日で主を忘れる』という諺があるが、こういうことを踏まえて、鼠と猫とを比べると、まさに『雪と炭』『月とすっぽん』。正反対とはこのことを言うのだ。」

 と、阿駒と恩を知り義を行う鼠を絶賛した。そして続けてこう言った。

 「昔、中国に蔡嘉夫(さいかふ)という男がいたそうな。この人は暮らしていた村を水害が襲い、水が引かないので、それを避け南側の高くなっている丘の上に避難し、暫くの間暮らしていたという。ある晩のこと、巨大な鼠が水の中から浮かび上がると、這々の体で嘉夫の寝ていた寝床の脇にやって来て横になって眠ったので、嘉夫は自分と同じように水に追われて来たのであろうと、その苦難を可哀想に思ったから、この大鼠に餌を与えてやったのだそうだ。こうして村を覆っていた水が引いた後、水難を逃れて餌を与えられた鼠は青絹玉顆の宝物を携えてきて、この男の恩に報いたという。今、この大鼠とこの阿駒は同じ類に入るのであろう。阿駒が言った通り、復讐には復讐で報うことがこうして役立つという思いも掛けぬ不思議な連鎖。因果というものからは逃れられぬというが、考えてみればそれはまさにこういうことを言うのであろう。とはいえ生きとし生けるもので命を惜しまぬものはない。儚くも朝生まれて夕方には死ぬというカゲロウという虫でさえ、追えばその命を惜しんで逃れようとするではないか。しかしどうだ、この鼠。恩のためとはいえ、自害して果て、しかも臨終にその骸を天ぷらの餌にしてくれなどとのたもうて逝きおった。そんな辛い思いまでして恩を返し、義を通そうとしたとはなあ。本当にこんな忠節は聞いたこともない。実に得難い阿駒の行いだった。賞めても賞めても賞め切れぬ。最早賞める言葉は使い尽くしてしまった….。ともあれ、お前の最期の行いは有り難く、またその骸を天ぷらにしてあの聴水を捕らえよというのが本望とあらば、お前の願いを叶えるもその忠義への我等の報い。無残ではある、しかし決して無駄にはせぬ。私はここで心を鬼にし、これからお前の骸を油で揚げ、罠に懸けさせてもらう。そしてな、阿駒。あの憎き聴水をうまく釣寄せて、首尾良く奴を討ち取ることができたその曉には、それこそがお前の菩提を弔うことになると私たちは信じる。さあ、こういうこととあらば、善は急げだ。頂戴するぞ、阿駒」

 と黄金丸は天に向かって言うと、沈みかけていた心を勇み立てた。黄金丸は身を起こし、寺の庭に鍋を用意した。油を注ぎ、火に掛け、油が煮えると鷲郎から阿駒の遺骸を受け取り、その骸を油の中に沈め、雌鼠の天ぷらの調理を始めた。

 一方、鷲郎は黄金丸に阿駒の遺骸を渡すと暫くその成行を見守っていたが、黄金丸が調理を始めると涙を拭って立ち上がり、やはり庭に降り立つと、罠の準備に取り掛かるため、材料の青竹を拾いに裏山に向かうのであった。

10

<朗読>

 さて一方、仇の狐、聴水の方はというと…。

 悪狐聴水は、夜、里山を獲物を求め彷徨い疲れ、野菊の原で寝入っていたあの日あの時、偶然、聴水を探し求めている黄金丸に見つかった。そしてあの場で黄金丸に討たれ身罷っていたはずであった。だが、流石、術策に長けた老狐、黄金丸の追跡を奇計に落とし、どうにかこうにか身ひとつになりながら遁れ、命を拾ったのであった。

それ以来聴水は命をつけ狙われていることを知り、九死に一生を得たその時以来、犬の活動する昼間は言うまでもがな、もともと夜行性の狐ではあるが、その得意な夜間でさえも決して里の方に近づこうなどとはせず、用心に用心を重ねた上、油断なく過ごしていた。

 こうして命長らえた聴水は無事に棲処に戻ってからというもの、山奥の獣たちの噂にその耳巧者の耳を更に欹てては黄金丸の様子や居場所、その動向を探っていた。聴水の耳に入った山奥の獣たちの噂によると、あの黄金丸はあの夜、大男に棒でひどく叩かれ、その時に右の前足を砕かれたということらしい。聴水はその噂を聞くと張り詰めていた警戒心をやや緩ませて、ほっと息を吐いた。

 しかし聴水は山奥で囁かれている噂の噂を頭から信じるような軽佻浮薄な輩ではなかった。そこでいつでも逃げられるよう準備をしつつ、びくびくしながら恐る恐る里方へ下り、奥山で囁かれている噂の真偽と最新の黄金丸の様子を里方の獣たちに得意の口巧者を発揮し、それとなくさらに詳しく探りを入れるのだった。里近い獣たちの話によれば、黄金丸の傷は思いの外重傷で、日が経っても一向に良くなる気配がなく、これではいけないということで明日には、木賊ヶ原の朱目の翁の元へ出向いて、治療を願い出ることになっている、という話であった。聴水はあれやこれや手練手管を尽くして噂話を調べ上げ、こうして黄金丸の怪我の確からしい様子を知ることができたのだった。そして、

 「これは聞き捨てならぬことだ。ああ、嘆かわしい。黄金丸の奴めがもしや噂の通り朱目の翁の元に行き、あの月の精嫦娥直伝の薬で施療せられ、生涯不自由になるはずの足の怪我が完治しようものならば、俺にはえらい迷惑なことだ。あの屈強な猛犬の黄金丸にまたもや四六時中昼夜を分かたず命をつけ狙われようものなら、明けても暮れても寸刻の油断もできず、のべつまくなく警戒しながら、殺されぬよう常に逃げる準備を怠らずびくびくしながら隙を見せることなく暮らさねばならぬ。そんな憂き目を見るのではたまったものではない。今のうちに何とか黄金丸の奴を亡きものにしなくては、枕を高くして眠ることもできん」

 と、聴水はあれこれと思いを巡らしていたが、その時、ある考えが浮かぶや、はたと膝を打った。

 「おお、これは良い計略を思いついたぞ。最近、大虎の金眸大王にお召し抱えになった新参者だが、実に忠実に働くので、大王の寵愛を受け可愛がられているあの猿の黒衣(こくい)を仲間に引き入れるのが良かろう。あの黒衣の奴は弓の技に長けておるらしいからな。先日黒衣の叔父が沢蟹と合戦をした折、奴は弓を以てして軍功を立てたという噂も耳にしておるしな。まあ、その後、奴の叔父は臼に打たれ殺され、黒衣は沢蟹どもに追われて落ち猿となって遁れ、この山に彷徨い至り、金眸大王に召し抱えられたということだが、孰れにせよ昔とった杵柄、一束の矢と一張の弓を持ちさえすれば、あの黄金丸の如きは、事もなく射殺して余りあるに違いなかろう。とりあえず、まずは黒衣の元へ行って、黒衣に俺が黄金丸に命を付け狙われている由をあからさまに語り、黄金丸射殺の件を依頼するのが最善の方法であろう」

 聴水はこう思い付くと、すぐ猿の黒衣の元へ走って行った。黒衣の棲み処につくや、聴水は例の如く言葉巧みに黒衣に頼み込むのであった。もちろん悪狐聴水から相談を受けた黒衣も、心がねじけた品性下劣な猿であるから、何の異議もなく聴水の持ちかけに請け合ってこう言った。

 「俺もここのところ暫くは合戦から離れておったから、以前に比べれば少しばかり弓の腕も鈍っておるやもしれぬ。しかし、たかが犬一匹のこと、知れたものよ。俺の今の腕でも、まあ一矢あらば十分。見事射貫いて冥土に送ってくれようぞ。屁の河童たあこういうことよ。そういうことであれば、俺はこれからまず弓と矢を作る。お前の言うその黄金丸とかいうわんころが、朱目という医者のところで治療を終え安堵して寺へ帰るその帰り際、そこが襲いをかける好機と見た。よっしゃ。ということであれば、今日これから、俺は奴の帰り途の何処かで待ち伏せ、きゃつが警戒を解いているところを狙い、射留めることとしようではないか」

 と黒衣が太鼓判を押したので、それはそれは聴水にとっていかにも頼もしく聞こえた。聴水は大喜びしてこう言った。

 「万般、すべからく黒衣主にお任せ申す。私は口も手も顔も何も出さぬので、主の良いように黄金丸の奴をたっぷり料理してもらいたい。で、この件についての謝礼だが…、黄金丸を討ったその曉には、主が望むその通りに満額支払わせてもらおう」

 聴水はこう言うと、黒衣が始めた弓矢づくりに手を貸した。櫨の木の弓に鬼蔦の弦をかけ、生竹を鋭く削って矢を作った。こうしてしばらくすると黄金丸を襲撃する準備は万端整ったのであった。

 さて聴水は、翌日の夕暮れ、黄金丸抹殺の謀の顛末を聞きに再び黒衣の処へ赴いた。黒衣は聴水が心配顔でやって来るのを見るや、ドヤ顔をしてあざ笑った。

 「ふふふ、聴水どの、まあ聞けや。俺は今日木賊ヶ原に行き、黄金丸の奴が寺に帰り来るところを狙おうと考え、道の辺に立つ大振りな松の木の幹に攀じ登り、射損じなきよう狙いを定めるに適した、枝振りよい木の股を探し、足下をしっかりさせ揺るぎなきよう陣取って待っておったのよ。ただひとつだけ心配であったのはな、俺はこれまで、お主からの依頼のその黄金丸とやら、そのわんころに出会うたことがないで。もし関わりなき他の犬に間違って射掛け、傷つけようものなら、俺も禍根を背負い、命を狙われるはめになるやも知れんから、そうした後の禍となることは何とも避けたい、そんなことを少しばかり気にかけて待っておったがの。そうこうしているうちに獣道の彼方より、茶色の毛をした犬で、しかもうち一足が言うことを利かぬのが、ひょこたんひょこたん覚束ない足取りでやってくるではないか。ああ、あのわんころ、かねてよりお主が俺に物語ったところのお主の命を狙う黄金丸という犬の特徴、すなわち茶色の毛で、しかも一足が萎えておる犬、これとその特徴がぴったりと附合するではないか。おお、お主から聞いておった黄金丸とはまさにあれに他ならなかろうと思い定めた。いよいよ、このわんころ、俺が矢の射程に入りおったので、矢を弓に番え、遺憾なく弦を引き絞り、矢を射る頃合いをはかっておったのよ。すなわちこの時とばかりひょうと射放った。ふふ、俺の狙いに狂いはなく、俺の放った矢はそのわんころの右目を射通して深々と突き立ちおったわい。さすがの猛犬の黄金丸も、右目を射貫かれてはたまらず、その場に俄にはたと倒れしを。見ればその足を宙に擡げじたばたしておったが、そのうち藻掻き苦しんで死におったわ。おお、これは見事に射殺したと思ったので、奴の骸を取って行こうと、陣取っておった松の股よりするすると伝い降りた。ところがだ、そこにどこからか一人の大男が現れた。見れば奴は犬の皮を以てして業とするらしき輩。手に太い棍棒を握っておった。射止めた黄金丸の骸を得ようと俺も歩み寄ったところであったが、奴はこの俺を遮って、それ以上骸に関わらば、どうやら奴は手に持ったその太い棒で俺をなぶりものにせんという勢いであった。俺も黄金丸さえ亡きものにすればお主との約束を違える訳でもなし、屈強なる大男、さらに太い棒を握って睨みを利かしているということになれば、黄金丸の骸を手に入れるにはその大男と一戦を交えなければならぬ。さては、黄金丸を討つというお主との約束は果たし終えておるのだから骸は然ほど要するものでなし。ま、射止めた黄金丸の亡骸を携えて、お主に<ほれ、これか>とて見せ占むるのが手柄の証とは思えども、ここでそれを諦めて大男にその証を横取りされるとあらば、実に口惜しいことではあったが、その証を得るためにその大男と争い、万一俺が傷つけられるようなことになれば、俺にとってそれはまさに無益、と思ったので、骸を得ることは諦めて帰って来たのだ。ま、そういうことで射止めた黄金丸の骸という証を得ることはできなんだが、今申したように確かに俺は奴を仕留めたので、お主はその証拠を見れなくとも何の心配も無用。確かに射止めたのであるから。俺を信じよ。ああ、お主を付け狙っておったあの黄金丸というわんころも、今頃は他の山犬同様、皮屋の軒につり下げられ血を抜かれておることであろうよ。まあ、思えば俺は黄金丸に何の恨みもない。ああ、無残なことをしでかしたものだ」

 とまことしやかに物語った。これを聞いて聴水は疑うことなく小躍りして喜んでこう言った。

 「ああ、これは有り難い。ああ、俺もこれでこれよりは安心して枕を高くして眠れる。いやいや、お主に仕留めてもらったあの黄金丸というわんころは、俺ばかりか、畏くも金眸大王までをも仇と見なし、命を狙っておったのだ。奴の足の傷が完治しようものなら、きっとこの山中に討ち入って来て、俺はもとより大王様にも刃向かい、隙あらば襲い噛み殺し、思いを遂げようという謀をする筈。…話にもあるが、かかる南北朝の頃、後醍醐天皇の南朝方、新田義貞の腹心で越前伊地知にて、足利方の斯波高経(しばたかつね)と激戦の末に討ち死にしたあの関東秩父の武将畑六郎左衛門時能(はたろくろうざえもんときよし)の愛犬、ほら、あの主への戦報せで大活躍したというあの軍用犬犬獅子(けんじし)という犬。お主も太平記読みの詠い語りを聞いたことがあろう。その『太平記』という本の巻二十二の「畑六郎左衛門事」にも出て来るのだが、その犬と同様、黄金丸がいかに知略にも勇気にも長けているとは謂えども、蜀犬日に吠ゆというが、すなわち中国の南西、蜀の地方は山がちで霧が深く、日が射すことが稀なため、太陽を見ると犬が怪しんで吠えるという諺、ま、無知なもの、見識が狭いもののなすことは殊の外意味がないという意味だが、まさにこの諺通り、わが金眸大王に歯向かうなど、己の力を知らぬ愚の骨頂のなす無意味無益な業。黄金丸の企てはまさにこの諺を地で行くところ。しかし金眸大王も慎重なお方ゆえ、黄金丸に命を狙われているという噂がお耳に入ると、いささかではあるが、油断をした時なぞに襲わるれば、それは大王様には他愛のないこととはいえ、心安らかではないので、軽々しい外出はお控えなさるようになさっておられたようだ。さてさて、今お主が言うには、お主の天下に鳴らした弓の腕を以てして、一箭の下に黄金丸めを射殺したということであらば、それはもちろん吾が日々の憂いを去らしめる快挙であるばかりか、取りも直さず金眸大王におかせられても、その尊いお目の上にあるたん瘤を払うがことに等しい壮挙。吾においては先ほど申した通り、これより後は安心してぐっすり眠ることができる。また金眸大王におかせられても、拝察するに、それはそれは高枕にておやすみなさられようぞ。こうできるようになったのも偏にお主の働き、その勲功まさに卓越なるものである。俺はこれより大王様にお目通りし、お主のこの度の働きを奏上し、お主が抜群の恩賞を得られるよう推輓のこと、大王にご注進したりけるぞ。待ち給えや。必ず慶び来たりけるに。では、黒衣どの。今日のところはこれにて。….ははは、いやあ、よかった、ああよかった。あははは、よかったよかった…」

 聴水はそう言うと、それはそれはとても嬉しそうに黒衣の元を立ち去って行くのであった。

11

<朗読>

 こうして悪狐聴水は、猿の黒衣の棲み処を後にした。黄金丸に四六時中命を狙われているという憂鬱も手伝ってか、黒衣の黄金丸抹殺の物語がまさか真っ赤な嘘だとは、道端の月がきらめく露ほども疑うことがなかった。黄金丸の厄難が去ったと信じ切った聴水は、ただただ嬉しくて嬉しくてどうしようもなかった。聴水は飛び跳ねて喜びながらこう言った。

 「ああ、よかった、よかった。明日からは天下晴れて、里へも野へも何の遠慮も心配も憂いも躊躇もなく自由気ままに思い通り出かけられるぞ。やははは、うはは、嬉しいなあ。良かったなあ」

 長い間獄舎に繋がれていた人が、急に御赦免になって巷へ出たような心持ちとはこういうことであろう。足も軽やかに大虎金眸大王の洞へと向かった。聴水が洞に入ると、金眸大王はちょうど照射(ともし)という手掛けの雌鹿を側近くに招き寄せ、酌をさせるなどしながら他の目をはばからずいちゃいちゃしながら酒盛りに耽っているところであった。聴水は金眸大王のそのような在り様を見た通り理解して洞の中に畏まって進み入ると、大変丁重にまずは大王のご機嫌伺いをした。挨拶が終わると、来訪の目的を告げた。

 「只今大王様の御前に参上仕りましたその由は、今日のこの日にございました大王様におかれましては誠に慶ばしき事件の顛末につきご報告申し上げるためでござります。大王様もすでに耳にされていることと存じますが、私ばかりか恐れ多くも大王様までをも隙あらばと、狙っておりました黄金丸というわんころのことでございます。本日、この犬、私めの機略にて、かの猿の黒衣を以てして、樹上に伏兵させ、黒衣得意の弓にて射掛けさせ、黄金丸めの油断せるところを見事一矢にて射殺せしめました。その顛末につきまして、これよりかいつまんでご報告させていただきたく参上仕りました次第でござります…」

 聴水は口上に続き、黄金丸殺害の過程を簡潔に要点を突きながらありのまま金眸大王に奏上した。金眸大王は聴水の報告を聞くと、それはそれは大層喜んでこう言った。

 「おお、それは大きな手柄だ。しかし何故お前は黒衣の奴を伴ってやって来なんだか。手柄を立てた黒衣に俺が手ずから褒美を遣わそうものを」

 と言った。聴水はこれに答えてこう言った。

 「大王様が只今思し召されましたように、この聴水めも思い煩ったのでございますが、今宵は最早更けゆく時となりました由、まず私より、何より早く今日のところは大王様のお耳に入れるのみとし、その他仔細ある奏上は思い留めんと慮ったからでござります。まずは本日は手短なご報告で済まし、大王様の御予定をお立ていただきました上で、明日夕刻、大王様より直々彼の黒衣をお招き頂き、金眸大王様主催の酒宴を催されたらいかがかと、斯様に考えたのでござります。もしそういうことでよしということとあらば手筈を整え、私め、明朝里へ下り、酒宴に要する酒肴などを数多誂え、明晩宴までに大王様のおわしますこの洞へ持参致そうと存ずる次第でござります」

 聴水がこう言うと金眸大王も頷いてこう言った。

 「あれやこれやは聴水、お前の良いように取り計らうがよかろう」

 「はは、この聴水、大王様のお達し、只今畏まりて承りました」

 聴水は大王の言葉にこう答え一礼すると洞を出て、自分の棲み処へ帰るのであった。

 さてその翌朝のこと、聴水は身支度をして里の方へ出て行った。夕方まで里方の畑や人家の台所をここかしこ覗いて回って見たものの、はかばかしい成果を得ることができなかった。今夕の黒衣を招いた金眸大王主催の宴の酒肴をどうしても用意せねば、聴水一世一代の面子にかかわる。どうあっても獲物をと思い、あちらこちら尋ね歩いてもやはりはかばかしい結果を得られなかった。探しあぐねた聴水は、とある薮の蔭で休憩することにした。すると遠く荷車の車輪が軋む音がして、大きな一頭の牛がやはり普通のものより大きな荷車を挽いて道の彼方からやって来るではないか。荷車には牛飼いが一人乗っており、聴水のいる薮の方に向けて牛を叱咤しながら御して来る。薮の蔭で休んでいた聴水はその辺りに身を潜めながら、荷車に積まれた荷の様子を窺った。荷車は何処かの漁港から荷を運んできたらしい。荷車の荷は米俵の他に、塩鮭や鰯の煮干しなどを満載していた。
 <これは良きものを積んだ荷車に出くわしたわい>
聴水はそう目星を付けると、道端近くに身を潜めて車をやり過ごしながら、頃合いを見計らうと身を起こし、ひらりと荷車に駆け上がった。そして積んであった荷を音をさせないよう、少しずつ路上に投げ落とした。牛飼いは狐が荷を盗んでいることに少しも気付かず荷車を操っていた。だが、その荷車を挽く牛は、引く荷の重みが次第に軽くなるのが分かったので、これは何やら異変が起きていると感知して、積荷に何が起こっているか知ろうとしばしば立ち止まっては来し方を見返った。牛飼いは積荷を聴水に落とされ奪われていることなど露も知らなかったので、牛が立ち止まり振り返るのを牛がただ怠けようとしているものと勘違いし、ひたすら牛を罵っては鞭で打ち、前に進ませようと躍起になるのであった。そうこうしているうちに荷車はごとごとと一町ほどゆっくり先に進んだ。聴水は積荷の魚を大方路上に投げ落としたので、最早これ以上はこの荷車に用はなしと、車を飛び降りた。牛飼いは終に荷を聴水に取り崩されたことに気付かぬまま、牛を御し荷車を操りそのまま立ち去って行った。

 さて聴水は荷車から取り崩しては投げ落とし路上に散乱していた魚を一つずつ拾い集めはじめた。この魚を山へ運び今宵の酒宴の酒肴にしようとしたのであった。ところが欲の強い聴水のこと、荷車から投げ落とした魚の数はことの外多く、聴水一匹ではとても山に持って帰れられる嵩ではないことに気が付いた。さて、折角せしめたこの獲物、持てる分量のみ持ち帰るだけで、持てぬ分はそのまま捨て置くのはとても口惜しく、聴水の性格ではできるものではなかった。
 <さて、これは一体どうしたらよかろうのう>
と思い煩いながら、獲物の山を前にしばし頤に手を当て思案に暮れていた。ちょうどその時のことであった。彼方の森の蔭からまっしぐらにこちらの方に一匹の獣が走って来るではないか。<あれは何者であろうや>聴水はこちらに向かって一目散にやってくる獣が何者か目を皿のようにして窺った。どうやらその獣はあの猿の黒衣のようであった。黒衣は小脇に弓を抱えたまま、脇目も振らずに走って来て、山となった魚の前に佇んでいる聴水の前を猛然と走り抜けようとした。聴水は走り去ろうとする黒衣の行く手を遮り、押し留めようとしながらこう呼びかけた。

 「おお、おお、黒衣主、待てや、待たれや」

 どこへ向かおうというのかそれほど血相を変えて走っていた黒衣は、聴水からこのように呼びかけられるまでそこに聴水がいることに気がつかなかったようだった。黒衣は呼びかけられたので暫く行き過ぎたのだが、漸く走る足を緩め立ち止まり、聴水の方を振り返った。黒衣は呼びかけたのが聴水であることを知ると、ちょっと驚いたような困ったような顔をし、ただ目を見開いて聴水を見詰めるだけで、一言も発しようとしなかった。聴水は黒衣のその顔や挙動が滑稽なので、何やら可笑しくなった。しかしその可笑しさを堪えながらこう言った。

 「何と何と、慌ただしい。黒衣主、何事であるや?見たところ血相を変えた面立ち…何やかに追われておるのか?」

 黒衣は聴水からこう問われると、初めて大きく深く溜息を吐き、青ざめた顔をしてこう言った。

 「ああ、恐ろしい。桑原桑原。今な、あの森の中で、あの黄金….いや、黄金…色をした、黄金色の大鳥に遭ったのだ。いや、この弓を以てしてな、あ~、ん。一矢の下に射止めてやろうとしたのだがな….、ところがだ、その黄金、黄金色の鳥は大きな鷲でな、俺の放った矢をかいくぐり、その矢を放ったのが俺と見るや、鋭い巨大な爪で俺を一掴みに掴み逆襲せんと走り、…いや、飛び掛かって来おったのだ。おお、恐ろしい。あんな巨大な奴、いや、俺の弓を以てすれば、相手は夜店のひよこのようなもの、ま、こわっぱとはいえ、この俺のような栄光あるものでも油断は大敵という。ふはは、流石のこの俺もいささか肝を潰、いや、先ほどは少しく気が緩んでお、いや、迎え撃つ体制に不備を見つけたでな。これはまずい、逃げよ…、いや、体勢を立て直し、奴を殲滅せるためその弱点を探し出してだな、再度射止める機会があらばだが…、いや、目に物を見せてくれようと、一旦は退却…、いや転進して今ここにこうやって至ったのだ…」

 と、胸をなで下ろしながら、ろれつの回らない、聞きづらい自信のなさそうな声でやや苦しげにそう言った。聴水は半ば言っている内容が聞き取れなかったが、高笑いをしてこう言った。

 「そうか。黒衣主。大鷲に出くわしたか。それは実に危なかったな。とはいえ、黒衣殿。これからどこへ向かわんとするか、それはそれとて、今宵はお主が主賓。お主はただ大王の宴の誂えられた席にただ坐っておるだけで美味い肴を腹一杯賞味できる。俺はその宴の準備をしておるところなのに、何かにとりつかれたような顔をして、木賊が原に通ずる森などに出向き、わざわざ猟などする必要があろうや。そんな要らぬ無理をする故に、そのような危ない目に遭うのだ。何も黄金色の鳥など射る必要もなかろうや。毛を吹いて疵を求むるという諺があるが、そんな黄金色の鷲の弱点を探し出して再び打とうとして、己の弱点をさらけ出すような、そんな危ないことに手を出し、何も要らぬ危難に自ら陥れることもなかろうぞ。酔狂なのもほどほどにするのがよかろうや。まあ、それはともあれ、吾が今述べたように我々は今宵金眸大王の仰せを受け、お主を主賓に宴に招こうということで、俺は今朝からその宴の酒肴を漁って来たのだ。どうだ、この俺の腕、一日もあれば、ほれ、ご覧の如く山のような肴をこうやって集めることができる。だが、大王様とお主に喜んで沢山のものを心ゆくまで楽しんでもらおうと、少しばかりこの腕を振るいすぎてな。気が付けば吾一匹ではどうにも持ち切れぬほどの酒肴が集まってしまっての。この宴に用いる魚の数数、いかに山に持ち帰ろうか少しばかり思案に暮れておったところだ。そこに今、お主がここを通りかかったのは大王様はもとよりお主にも、もちろん俺にも幸運なことであったなあ。宴を主催される大王様も、さぞお主が参上すること、そしてこの魚が吾より届くことを心待ちにしておられることであろう。さあ、黒衣主。お主もこの魚、山に運び入れるのを手伝い給えや。そしてこの良き魚を、更に舌がとろけんばかりに味付けた数多の料理を心ゆくまで腹に収むるが良いぞ。情けは人のためならず、という諺がある。人に親切にしておけば、必ずよい報いがある。俺の相談に乗ってくれた上、黄金丸の奴を仕留めて呉れた黒衣主、正に吾が恩人。吾の恩の証としてこの魚、皆お主への報恩のつもりで集めたもの。何しろあの金眸大王がお主のために催す宴。本に本に、この魚で愉しめや。」

 黒衣は、聴水が上機嫌でこう言うのを聞くと、それに呼応して笑いながらこう言った。

 「ははは、そうか、俺のための宴も魚も整えてくれたのか。これを思い切り食えるというのは実に有り難いこと。この酒肴を山に上げるのだろ。それを手伝えと。そんなことは赤子の手を捻るより簡単なこと。幸いなことにここに弓があるから、これを天秤棒替わりにし、にこの酒肴を提げて我等二匹で担ぎ上げようではないか。ということであれば、ちょっと待ち給え、その用に供するように設えるからの」

 黒衣はそう言うと、やがてどこからか大きな古い菰を拾って来ると、魚をその菰で包み、その上から縄をかけた。こうして聴水が手に入れた大量の魚を菰巻きにすると、携えていた弓を縄の間に差し入れた。そうして人間の乗る駕籠のような形にすると、やはり駕籠掻きが駕籠を担ぐように弓の両端をそれぞれ肩に乗せられるように整えた。聴水と黒衣は菰巻きを間にして相前後してこれを担ぐと、宴の催される金眸大王の棲み処の洞へ向かって、えっさー・ほーい、えっさー・ほーおと息を合わせて坂道を急ぐのであった。

12

<朗読>

 悪狐聴水と猿の黒衣の二匹の獣は、聴水が荷車の積荷から盗み取った塩鮭や鰯の煮干しなどの獲物を全てひっくるめ、一包みの菰巻にし縄を掛け、黒衣の弓を担ぎ棒にし、駕籠掻きが駕籠を担ぐように相前後してえっさえっさ携えて、大虎金眸大王の洞へと持参した。洞に着くと聴水はこれらの魚を調理し、金眸大王に忠誠を誓う数多の獣たちを呼び寄せて酒宴を始めた。集まった獣どもは、金眸大王と聴水を仇と見なし、隙あらば命を取ろうと付け狙っていた黄金丸という犬を一矢の下に討ち取り、金眸大王と聴水の憂いを晴らしたという猿の黒衣の忠君の働きを耳にすると、口を極めて黒衣を褒め称えた。黒衣は皆に褒めそやされているうちに次第に得意満面、ドヤ顔となり、鼻の辺りをピクピクと動かし、大変嬉しそうにふんぞり返り酒肴に舌鼓を打ち始めた。

 金眸大王はというと、常に警戒を怠らず緊張した状態にあったばかりか、何を愉しんでいても常に黄金丸が乱入した場合を考えて憂慮していたので、常に目の上のたん瘤のように、邪魔であるものの払えない憂鬱の原因であった黄金丸がこの世からいなくなったのだから、それは喉と胸の支えが一遍にすっと取れたような晴れ晴れしい心持ちであった。そのためかいつもより大王は多く酒を嗜み、いかにも上機嫌に酔っているように見えた。

 聴水も黒衣も、金眸大王の上機嫌を見計らうと、ここを好機とばかり更に取り入らんとして阿諛追従、おもねり媚びの限りを尽くして、鼻の息を窺いながら髭の塵を払っていた。聴水が歌うと黒衣が舞う。聴水が

恋しくば 尋ねきてみよ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉

 と、安倍晴明を産んだ母、すなわち白狐の葛の葉が、己が狐の正体が明るみに出たので、古巣の信太(しのだ)の森の稲荷に帰らねばならず、子の晴明との別れを惜しんで詠んだとされる短歌を声高に詠った。すると続けて獣の中から三味線上手、太鼓上手、鉦上手、合手上手、謡上手が現れた。彼らは下座に着くと、

ハ~、トコトンコンチキチキシャンシャンペケペン
イヨオ~、ペンペントコトココンチキシャカシャンチン

 と謡と演奏が始まった。聴水も自ら肩掛け紐を付けた三味線を持ち、まずはそれを背中に廻し頬被りをして、幾匹か雌獣のきれいどころを伴って現れた。そして前奏が鳴り響くと、こうやり始めた。

麦つ~んで 小麦つ~んで
お手に豆が九つ
ここの~つの 豆を数えりゃ
親の在所が 恋~しい
恋し~くば 訊ねきて見よ
信太の 森の 恨み葛の葉
ヨイヨイヨイ

 と、あの「信太の森の葛の葉、麦つんで」を唄い踊り始めた。黒衣はというと、そこにあり合わせた藤蔓を洞の中に張り巡らし、その上を得意の綱渡りの芸をして歩いた。そして金眸大王の逆鱗に触れないようお座敷遊び「虎と~らとうらとらっ」などをして見せ、金棒大王の太鼓持ちをした。大王はそうした出し物や遊びを悦しみながら、照射(ともし)に酒を注がせ、頻りに笑ったり体を揺すったりしていた。やがてすっかり酔い潰れてしまうと、側雌の照射の膝を枕にして、前後不覚に陥って高鼾をかきはじめた。その鼾の凄まじきこと洞の中に谺となって響き渡った。金眸大王の手下の獣どもはそんな大王の大鼾を余所にして、歌や踊りや太鼓や鉦や三味線、きれいどころの歌と踊りと遊びと酒に興じ、こうして夜も更けて行った。

 聴水はまだ愉しんでいる獣どもと分かれを告げると、帰路に着こうと金眸大王の洞を出た。かなり酒を飲んだので足がよろめいたが、その足をしっかりと踏みしめながら、怪我をせぬよう一歩一歩歩を進め、自分の棲み処に辿り着いた。しかしその夜は快晴で雲もなく、十日の月の明かりに照らされて、夜景は見渡す限り清らかに蔭一つなく冴え渡り、野も林も一面真昼のようにどこまでも澄み切って見渡すことができた。それはそれはえもいわれぬほど美しくまた神秘的な風光であった。

 一旦は棲み処の穴に入ろうとした聴水ではあったが、あまりの夜色の素晴らしさに、自分の巣へ帰ることも忘れ、だんだんと麓の方へ向かって降りて行った。暫く行くと切り株があり、その切り株にちょこっと腰を掛けて、天高く昇り辺り一面を青白く明るく照らす十日の月を眺めていた。そして聴水は蝋石のような透き通ったような眼差しをすると、月に向かって独り言を言った。

 「ああ、心地よいことこの上ない。本日のこの日のこの月は、いつになく更に冴え渡って見える。これもここのところ毎日毎日いつもいつも付け狙われ、気がかりで気がかりでひとときも忘れることなく鬱陶しく思っていたあの黄金丸の奴を亡き者にしたからこそ、この月はこのように更に美しく光り輝いているのであろう。心や頭に重く垂れ込め、のし掛かっていた雲のような重苦しい気分や五里霧中の胸中であったのが、黄金丸の奴がこの世からいなくなったことで一時に雲散霧消、解決した。こうして一気に晴れ渡ったその心持ちが天に通じ、このような得も言われぬ、からりと晴れ渡った一点の瑕もない美しい夜景を我が目前に表してくれたのであろう。….いやいや、それにしても何と明るく優しく吾を包み込む月の染み通るような光であることか。もし俺が狐でなく狸であったら、この美しい月を眺めながらきっと今ここで腹鼓をぽんぽこぽん、ぽんぽこぽこぽん、ぽんぽこぽこぽんなどと打ち鳴らすことであろうなあ」

 聴水は、あの猿の黒衣の虚言、黄金丸を討ったという絵空言に騙され、それが真っ赤な虚とは露知らず頭から黒衣の作り話を信じ込んでしまったのだった。裏の裏まで読み通し、滅多に他言を信用しないあの悪狐聴水が黄金丸に狙われているという重圧に耐えきれず、黒衣の嘘を信じたのはまさに悪運ここに尽きるということであった。長年なしてきた悪行の天罰がついにここに下り、今聴水を照らしている十日の月はすなわち聴水の身の運の尽きを表していたのであった。聴水はまさに己が尽きる運命を写すまほろばの如き月光を賛美していた。それは根っからのお人好し、あるいはそれを信念とする者で、他に騙されてもそれとは知らず他から与えられた運命を我が運命とし、それ信じ、またそれを享受する愚か者か或いは聖者のようにも思えた。聴水とは似ても似つかぬそのあり様は、正に命運尽き果てた者、或いは悟りきった者の姿のようにさえ見えた。

 まさにそのときのこと。折しもそよ吹く風に乗って、何処からともなく、芳醇この上ない香りが漂って来た。聴水は、
 <そんな馬鹿な。このようないかにも頤が落ちそうな甘美な匂いが、この時この場に漂って来る筈があろうものか>
と思った。しかし聴水はその馨しい香りが漂って来る方向に鼻を向けると、何かに取り憑かれたようにうっとりして鼻をひくひくとさせながらその香りに導かれて行くのだった。その芳香を標に導かれながら聴水は

 「ああ、これは俺の大の大の大好物。雌鼠の天ぷらの匂いだ」

 とつぶやいた。聴水はそれ以上は開くことができないほど鼻孔を広げると、その香りを鼻の奥深く何度も何度もくんくんくんくんと吸い込むのであった。芳醇な香りは聴水の脳幹まで染み渡った。聴水はたちまち目を細くして、この上もない幸せな顔をしてこう言った。

 「ああ、何という何という甘美。ああ、良い香りだ。ああ、良い匂いだなあ。どこの誰か存ぜぬが、この俺のために、俺の大の大の大好物の雌鼠の天ぷら、その馳走を拵えてくれているのだ。ああ、嬉しい。さてさて、ではどなたか知らぬが行ってその饗応にあいなるということとしよう。ああ、良い匂いだあ」

 この上ない大好物の雌鼠の天ぷらの香りに、聴水の思考能力は完全に停止してしまった。天ぷらの匂いに誘われて、ただただひたすらそれを求めて歩んで行った。今聴水にできることとは、ただ匂いのする方向にまっすぐに進むことだけであった。道なき道を渡り、深く生い茂った草叢を分け、薮漕ぎをし、ただその香りを標にして辿り進んだ。暫く行くと、ますますその芳香は強くなった。もうお目当ての天ぷらはどこかそこいら辺りにある筈だった。聴水の鼻腔は雌鼠のえもいわれぬ芳醇な香りで一杯になってしまった。最早心は虚ろとなり、ただただその在処を探し漁り求めた。すると小笹が一叢繁った中に、あるではないか、雌鼠の天ぷらが。

 「ああ、ここだあ、ここにあった」

 天ぷらになった雌鼠は身の締まった均整のとれた美しい鼠のように見えた。おいしそうな衣ごしに、目を安らかに閉じて手を合わせている姿は神々しくさえ見えた。聴水はああ、うまそうな上にどうぞ喰ってくれといわんばかりの素直な顔付きをしているな、と思い、涎をつーっと垂らしながら、しばしうっとりとその雌鼠の天ぷらを眺めていたが、

 「ああ、頤も涎も落ちる。ではでは早速」

 と、さあ、喰おうと天ぷらに牙が僅かに掛かったそのときであった。
 <ピシパシッ!>
という音がすると同時に聴水は急に何かに頸を締め付けられ、引き倒された。雌鼠の天ぷらは向こう側に飛んで行ってしまった。

 「ああ、おいしいものがあっちに。む、何や、この頸に巻き付いたものは。あの天ぷらに届かぬではないか。ああ、食えぬではないか。いやいや、待て、何故、向こうに体が行かぬ?う、うう、く、苦しい。何や、この頸の紐は?ああ、ああ、そうか!ああしまった!南無三。ああああ、罠であったのか。あああ、愚なことに大の大の大好物の雌鼠の天ぷらを喰らわんがためとはいえ、ああ、何と鈍なことであった。こんなことで、こんなことで罠に落ち、この俺は釣られてしまったのか。ああ、これで俺も一巻の終わりか。ああ、無念無念。これまで慎重に慎重を重ねて世を経てきたものを。こんな馬鹿が掛かるような罠にこの俺が掛かるとはなあ。ああ、嘆かわしい。くそお、この罠を掛けた狩人がこの罠の様子を見にここにやって来るまでの間に、どうにか逃れられないだろうか。いや、逃がれねばならぬ、逃れよう、逃れよう」

 聴水はこう言うと、力の限り藻掻いてみた。藻掻いて藻掻いて藻掻きまくった。しかしそれは全く無駄な努力、無駄な抵抗であった。そしてそればかりではなかった。逃れようと藻掻けば藻掻くほど、聴水の頸に掛かった罠の縄は聴水の頸を絞め上げて来た。もはや顔の血管が浮き上がり、顔色が土色になるほど絞り上げられてしまった。その苦しいことは形容しがたいものであった。

 聴水が小笹の叢の中で苦しみながらどうにか逃れようと模索していると、がさがさと左右の小笹が音を立てた。そして藻掻き苦しむ聴水の前に現れ出たものがあった。
 <ああ、いよいよ狩人が俺の掛かっている罠の様子を見回りに来たな>
と苦しい中で聴水は感じた。頸に掛かって締まった縄と頸の間に前足を入れて息を吐こうとするけれども、それもままならぬ中、ふと頭を擡げ見遣ると、そこに現れたのは人ではなかった。それはいかにも剛健な体躯をした二匹の犬であった。聴水は薄目を開けてその二匹を見た。右側に立っていた犬が前に進み出ると、こう言った。

 「おい、おまえ。聴水。俺が誰だか分かるな?」

 聴水は、痛苦しい中、漸くのこと前に進み出た犬の顔をしげしげと見詰めた。するとどうであろう。それは昨日、猿の黒衣に射殺された筈の黄金丸であった。聴水はそれが黄金丸だと分かると、驚いて目を大きく見開き、更にしげしげと黄金丸を見詰め、この窮地を逃れられぬものかと身悶えさせた。その犬は、聴水のそうした姿を見下しながら続けてこう言った。

 「どうだ、苦しいか。いやどれほど苦しかろうが、お前の計略やお前のなした数多の罪に苦しめられたもの、あるいはそれによって死んでいったものの苦しみを己の身を以てして悉く知るが良い。また彼らの無念はおまえが今味わっている無念の比にならぬほど悲惨なものもあったことであろうことも併せて知るが良い。ああ、今のお前は苦しんでおる。そうであろう。耳に入るのであらば、今私が言っていることを善く善く聞くが良い。お前、以前、よくも吾が父を騙し、金眸の奴をそそのかしその餌食にさせおったな。しかも、私自身にもまた、策謀を掛け、私には咎がないにも拘わらずあの大男に棒で叩かせ、一生を棒に振るやも知れぬほどの傷手を足に負わせた。その我が残念無念の心持ち、痛み、苦しみ。この度重なる仕打ちを受けたお前に対する吾が恨みは大海の深みより更に更に深く底知れぬものである。私はその遺恨を晴らすため、お前の命を狙ったが、お前と偶然遭遇したあの野菊の原で、私がお前に正々堂々名乗りを上げ、仇討ちを宣言し、立ち会いを求めたにも拘わらず、お前は怖れの余り私の前より遁走し、卑怯な手段を使い、私を策謀に掛けて逃れたその時以来、お前は俺に再び遭うことを怖れ、私がいる里方には一切姿を現さず、逃げ隠れをしておった。お前の前に私が現れないよう、お前が警戒し続けているのであれば、こちらがいくらお前の居場所を探ろうと、お前は居所を点々と変えながら逃げおおそうとするに違いない。そうなれば私は仇討ちの機会を失うばかりか、更にこの先々へと先延ばしして、もし私がお前に仇を果たす前にお前に安楽に死なれでもしようものなら、永遠に吾が遺恨を果たせぬ。それこそ吾れにとって痛恨の事態。私はお前に遺恨を晴らすため追い詰めることこそ吾が宿命と思いつも、大怪我でそれも儘ならぬという無念の日々を送っておった。そしてあの朱目の翁の兎殿から処方された月の精常娥直伝の治し薬のお陰で傷も癒え、また、その朱目殿の教えに従い、今宵、この晩、ここに狐罠を仕掛け、密かに近辺に身を隠し、おのれがこの罠におびき寄せられるのをただじっと待っておったのだ。お前の知るところではなかろうが、私のお前への恨みを知り、我等二匹がお前と金眸に天誅を加えるという正義を行う志に感じ入り共鳴しつつ、先日より吾等に忠節を以て仕えておった阿駒という雌鼠がおった。その雌鼠阿駒は、お主と金眸を討つという我等の願いを達するには雌鼠の天ぷらが要なりという我等が密やかなる話に耳を欹て、こっそりと聞くと、我等が話を聞き終わるや否や自ら命を絶ち、その残りし己が骸をお前をおびき寄せ捕らえるために仕掛ける狐罠の餌に献じるを本望とて、吾と我等に阿駒がその骸を差し出す事件があったのだ。その身を我等に供するために自ら命を絶った阿駒の赤心が通じたのであろう。愚かにもお前は阿駒を加えた我等の三匹の願いに釣り寄せられ、罠に落ちたのだ。どうだ、苦しいか。そうだ、そのように苦しむのもお前の天命である。我等の願いをもお前のその我欲に含め入れようというお主の強欲。結局はお主自身の生み出した我欲の因果の輪廻。考えれば、お前自らが自らの欲にかまけて行った自らの所業により、怨まれなくもよき恨みを生み、自ら招き入れ、自ずから落ちた罠。すべてお主の欲が作り上げた自作自演の最終章。それがお主の今の苦しみ。お前、四方やこうなるとは夢にも思わぬとよ。事実は小説より奇なり、とは良くもおっしゃられたもの。さて、我等二匹に加え、阿駒の遺志、我が父、さらに我が母の無念と恨みを晴らし、そしてお前に苦しめられ、また殺された数多の無垢善良なる獣たちになりかわり、今こそここに正にお前に天誅を加えんとす。さあさあ、我等二匹思いのまま、お前の肉を破り、骨を砕き、ずたずたになるまで咬み裂いて、お前が成した悪業の積もりに積もった因果の応報とはいかなるものか、最期の最期まで我等お前の急所を外し生かし、覚悟なきものの恐怖、切り刻まれるものの苦しみ、痛み、それがどのようなものかを、そう、生きながらにして、十分に味わってもらうこととしようか。さあ、思い知れや。今、それを思い知れや!聴水」

 聴水は黄金丸の口上を聞きながら、罠から、黄金丸から、鷲郎から、阿駒の願いから、これまで陥れてきた数多の善良な獣たちの恨みから逃れようと必死に藻掻いた。黄金丸は鷲郎と息を合わせると、言行一致、聴水に今正に左右より襲い掛かり牙を掛けんと飛びかかろうと身構えた。

 その時である。黄金丸と鷲郎の背後より思いも掛けず、柔和だが筋の通った声が掛かった。

 「待て待て、黄金丸。そして黄金丸のお仲間。暫く、暫く。暫く待たれよ。私に思うところがある故。こやつの命、今しばし助けおくがよかろう。」

 こういうと二匹の後ろから巨大なものがゆっくりと立ち出でて来た。黄金丸と鷲郎は、見上げるばかりに大いなる姿を持つその声の主の出現に驚いた。
 <こは、何者ぞ>
とて、二匹は身構えながら振り返ると、十日の月の光にその姿を透かし見た。それは大きな角を持つ大きな大きな体を持つ獣であった。斯様に大きな姿を持った獣、何時の間に忍び寄ったのであろう、それはなんと、黄金丸の養親(やしないおや)、あの牡牛の文角であった。

 「あ、お養父さん。文角養父さん、ではありませんか。ああ、これは。これは。」

 と黄金丸はその声とその影の主が我が養父文角であると分かると、文角の言葉通り、今正に聴水に襲い掛かろうとしていたのを思いとどまった。その様子を見ていた鷲郎もすぐにそれを察し、聴水に飛びかかるのを取りやめた。鷲郎は以前から黄金丸より聞いていた黄金丸の養い親の牛のこと、その牛がこの大牛か、とやや緊張を緩ませながら、牡牛の文角を見上げていた。文角義父の突然の来訪、しかもこのような切羽詰まった場に、音も気配もなく、その大きな体を悠然と現したのだから黄金丸は驚いた。黄金丸は魂消た顔をしたまま鷲郎に目を向けた。鷲郎もまた魂消た顔をしていた。そして目を丸くしたまま黄金丸を見返すのであった。

13

<13-1 朗読>

 朱目の翁の計略を元に、黄金丸と鷲郎が仕掛けた罠に掛かり捕らえられた聴水に、今、仇討ちが行われようというまさにその時、まさにその正念場に黄金丸の義父の牡牛文角が現れるとは。これは黄金丸にとって実に思いがけないことであった。黄金丸が驚いたのも本当に無理はなかった。しかし、流石、黄金丸。すぐに落ち着きを取り戻すとこう言った。

 「お懐かしゅうございます。久しくご無沙汰致しました、文角義父さん。いやいや、何故に斯様な場所へ、しかもこのような先途(せんど)の時にわざわざお運びなされたのでしょう。いや、驚きました。や、それはよし。何はともあれ、お義父さんには今ここで以前とあい変わらぬお姿に接し、ご健勝のこと、私は大変嬉しいです。ここにこのように捕らえました我が小なる仇、悪狐聴水と此奴の主、我が大なる仇、悪虎金眸大王を討ち取らんとて、お義父さんお義母さんの元を発って以来の欠礼の程何卒お許しください。」

 と、黄金丸は文角の来訪を労うとともに挨拶し欠礼の無礼を詫びると、加えて最後に一礼した。文角は黄金丸の相変わらぬ実直で飾らぬ誠実な態度に頷きつつこう言った。

 「黄金丸や、お主が驚くのも無理はない。だが、こうしてここに現れたのにはちと仔細があってな。いや、いや。さて、ここにお立ち会いになっておられる、こちらの犬殿はどちら様かな。先ほどより、お主の仇討ちのご加勢のお方ではなかろうかとご拝察申し上げておったが…」

 と、文角は初対面の鷲郎の方を見やりつつ黄金丸に尋ねた。黄金丸も鷲郎の方を見返って文角の問いに答えてこう言った。

 「ああ、文角義父さん。こちらのお方は、鷲郎殿と申して、過日、これこれこういうことで、世にも頼もしい勇犬。斯様な経緯でこのような力あるお方と偶然お会いしたばかりか、図らずも意気投合。互いに兄弟の盟約をし、一切隠し立てのなき仲とあいなった次第です。爾来、志と生活を共にしつつ、仇討ちの機会を窺っておった同志でございます。」

 文角への鷲郎の紹介が終わると、続いて黄金丸は鷲郎にこう言った。

 「鷲郎、このお牛殿、この方こそ日頃私がお主に噂しておった、あの文角義父さんだ」

 こうして黄金丸は、文角と鷲郎のそれぞれの間を取り持って互いを紹介し、二人の顔繋ぎをした。黄金丸の仲立ちが終わると、文角と鷲郎は互いに恭しく一礼し初対面の挨拶を済ませるのであった。さて互いの挨拶が済むのを真中に立って見届けると、黄金丸はそれぞれを見遣って、それぞれの面子が正しく保たれているかどうかを確かめるかのように各々とそれぞれ顔を見合わせ頷き合うと、やや間を置いて文角に向き直ってこう言った。

 「いやいや、さて、文角義父さん。何はともあれとはいえ、先ほどお話の中途でここにお越しになったのには仔細な訳があるとおっしゃられましたが、今日の今ここにおられるその仔細とはいかなることでございましょうや」

 と、忙しげに尋ねた。すると文角はこう答えた。

 「うむ、そのことじゃがな。よいか聞け、黄金丸。私も、お主らと今宵ここで廻り会おうとは実は夢にも思ってもみなんだのだ。今日な、わが主家の小者(つぶね)に曳かれ、この近辺にある市場に出向いてな、わしが曳く荷車に塩鮭やら鰯の煮干しやらを積み込んで運んでおったのじゃ。そしてある大薮のある場所を通り掛かったとき、物陰より狐が一匹現れてな、わしが曳く荷車に飛び乗るや、積んで運んでおった魚を一匹づつ掴んでは、わしが曳いて行く道の来し方に投げ降ろすのだ。<あっ、くそう、野良狐め、我が主の荷を盗んでおるな、この憎きこそ泥狐め>と思い振り返り振り返り良く良くその面を見ると、永年月恨みに思っておった、今ここで罠に苦しんでおる悪狐聴水ではないか。此奴がこうして現れ、わしが引く荷車の上でこうしておるところを見ると、わが義子黄金丸の牙に掛からず逃げおおせ未だこの近辺を徘徊し、こうして悪事を働いておることを知った。<この泥棒狐め、ここで会うたが百年目、わしがこの角で一突きに突き止め、地に礫けてわが重みを以て踏みつけ微塵にしてくれよう>と気は動いたのだが、如何せん、わしは荷車を曳く身。引き棒と縄で荷車に括り付けられているから、心や思いではそうしてやろうにも、実際はそうはゆかなかった。積荷が悪狐に少しずつ取り崩され盗まれているのを、御者の小者に告げようとするが、悲しいことに人語を発することができぬでな。小者は荷が盗まれているなどとは露も気付かず、此奴聴水めにまんまと盗み取られてしまった。わしは聴水に荷を盗まれておるのを知りつつも、どうにも手を出せず、おめおめ盗まれるのを残念にも承知しつつ、小者の御すまま市場に参った。市場に着くと小者の奴め、この大事に初めて気がつくや大騒動を始めた。主家から積んで来た三分の一の積荷がなくなっておったからのう。それはそれは小者の奴、大いに狼狽え、
 <ああ、どうしたことだ。こんなことが主家に知れたら、俺は即刻首であるばかりか、荷物の行方の詮議をされるのは必定。ああ、途中で落としたか、盗まれたか。ああ信じてはもらえんやもしれぬ。ああ、どうしたらよいのだ>
などと言っては半狂乱になりおった。
 <ああ、さては中途で荷崩れをして気付かぬうちに振り落としたに相違ない。引き返して取り戻そう>
ということで、わしを御し、荷車を引いて今来た道をすぐさま引き返した。そして道々あちらこちら
 <ここあたりではないか、これではないか>
と探し求めた。しかしこれと思しき証拠になるようなものは路上にも路傍にも一切認められなんだ。小者は主家までの路半ばまで引き返したものの<これは誰ぞに拾われて失せてしまったに相違ない。今はもう探しても出て来るものでもあるまい>
とて諦めることとあいなった。さてこうして小者は諦めがついたものの、諦め切れぬのはわしじゃ。あの聴水がなした悪行。一部始終わしは目の当たりにし、軽くなる荷車で感じておったから、それこそ無念さの募ること甚だしかった。殊に聴水はお主黄金丸の不倶戴天の仇であるから、さらにその恨みは怒髪天を衝くところであった。此奴が現れた薮、魚を盗み放り投げていた場所はもちろん頭に刻んであったで、あの近辺に潜伏しておることは間違いない、今晩、聴水の奴めを見つけ出し、生け捕りにして、縄に掛け、その後お主に会うこととし、此奴をその土産にしょっ引こう、と、そう心に思い定めたのだ。それで先ほど主家の牛小屋をこっそり忍び出て、そこここと尋ね巡ってここを探し出したのだ。そして今ここに至れば、図らずも思いも掛けずお主らと不思議なことに今ここで廻り会い、しかもお主らが此奴聴水を虜にしたその時その場に出くわしたというそう言う訳なのだ。いずれにせよ、此奴をまずは引っ捕らえたことは喜ばしくも嬉しいことだ」

 と語った。黄金丸は文角のこの話を聞くと、

 「なんと文角義父さんにまで。左様な悪事を働きおったのか。返す返すも聴水、お前という奴はどうにもならぬほどの賤奴。さあさあ、文角義父の一言のお陰で命を長らえたが、最早それも尽きたようだな。いよいよ思い知ってもらおうぞ」

 と言うと、黄金丸は牙を剥き出して、狐釣の罠に掛かってその罠紐がきつく首に巻き付き苦しみつつも逃げようと最後の足掻きをしている聴水に襲い掛かろうとした。文角は、

 「黄金丸、まだだ。まだ暫し待たれよ」

 とて、またしても黄金丸を押しとどめ、続けてこう言った。

 「そう事を急くな、黄金丸。苛立ってみたり、余りに事を急いだりすると、大なる望みを達するためには、それが為に無為にするとも限らんのだ。短気は損気。また硬直した考えや思想、教条主義は誤った判断をしがちだ。さらに妄想を逞しくて、仇討ちをしている自分に酔いしれ、それになりきったり、自分の中に役柄を何人も作り上げ、人格多重となって、自作自演を始めてはならぬ。それは独善、自己中心であり、独りよがりで他の生命を扱うことになろう。お主がこうなってしまっては、これから討つ金眸やこの虜となった聴水どもの為してきた悪事の根源と何の変わりがあろう。これこそミイラ取りがミイラになるということ。よいか社会と関わり物事をなす時は、関わる誰もが理解できる範囲内ですべてのことどもの説明が付かなくてはならぬのだ。今血気にはやり、お主の独断で此奴をを殺してしまってから、後になって生かしておけばよかったと悔いても、それは最早取り返しがつかぬ。一度失ったものはもう手に入れることができぬか、もし手に入れることができてもはたまた大変手間も時間もかかるものだ。」

 文角は若く実直で誠実な余り直情的で短絡な黄金丸の性格を、やや窘(たしな)めながらこう言うと、続けて、

「聴水は斯様に既に罠に落ち、お主らの虜となっているのであるから、正に俎の上の鯉と同じ。殺すも生かすも我等の思いのままである。しかしここでよく考えなくてはならないのは、この聴水は、お主の大なる仇、彼の金眸の最も頼りとする家臣であること。それゆえ金眸の周辺のこと、情報は何もかもほぼ知り得る立場にある筈。また、それを知らぬで済ませる性格ではなかろう。さらに此奴を今虜にしたばかりとあらば、金眸の最新情報を知っておろう。また今のところ此奴を捕らえたことを知るものは我等のみの筈。則ち敵方に聴水捕獲の情報は伝わっておらん。聴水より聞き出した最新情報を間違いなく速やかに慎重に用うれば、恐らく敵はまさか自分らの手の内を知られているとは思わぬであろうから、備え十分とて油断するであろうし、攻め手防ぎ手どちらもこれまでに決まった通りして来るであろう。我等が攻めるに相手の次の手まで読みて動ける。これは戦に長ずるであろう。よってこの聴水、もう暫し生かし責め、必要なことを聞き出せば、自ずから、金眸の棲み処、洞の様子も手に取るように知ることが出来るであろう。そして此奴から聞き出せるものがなくなった時…。どうだ、短気は損気。わかったかの。したがって、ここは年寄りのわしに暫しこの聴水の処遇を任せよ。よいか」

 文角はこう言うと黄金丸に同意を求めた。黄金丸は少し鷲郎の方を見る。鷲郎は
 <なるほど、ごもっとも>
というような顔をして文角の物語を聞いていた。黄金丸はその様子をみて、文角に同意して、無言で頷いた。

 「うん。よし。お主ら若者と同じ時代、同じ社会に生きておるが、昔若者でなあ、お主らと同じ気質であったが、今ではすっかり歳古ったものがおる。そうしたものはこういう場合どうするものか、年の功は亀の甲とはどういうものか。よいかそれをこれからとくと見て、心に刻んでおくがよい。これからわしが聴水になすことは今のお主らには必要がないかもしれぬし、お主らの年齢で老成は無用でもあるが、命長らえたときに必ず生かすことができる体験となるであろう」

 と言うと、文角は罠に掛かった聴水の元に足を進めた。文角は罠にかかって弱り始めていた聴水の襟髪を引っ掴み逃げられないように身を確保しつつ、首に掛かっていた罠を緩めると、大いなる体を支える太い膝の下に聴水の体を引き据えて身動きできないようにした。そして文角は聴水にこう説くのであった。

<13-2 朗読>

 「どうだ聴水。お前は黄金丸らの計略とその罠に掛かり、捕らえられ、こうして引き据えられる身となった。お前の悪運も最早これまでである。いよいよそれが尽きる時が来た。もうこれ以上の悪足掻きはやめ、潔く諦めよ。もともとはと言えば、お主は畏くも伏見稲荷大明神の御本社の神使いであったそうであるな。稲荷大明神の神使いであれば神使いらしく、大明神様のお命じにならるるまま、その分を守って暮らしておれば、いかにも稲荷大明神のご威光と霊験を軽んじるものは世になく、それにより誰もがお主を貴び、斯様に傷つけられることもなかったものをのう。他の神使いの狐たちは大明神に奉納された揚げ豆腐やら油揚げを以てそれで事足れりとし、全国に散らばり田の神、商の神を司っておるところを、お主はそれら大多数の敬虔なる狐とは異なり、その性、邪悪にして強欲。稲荷大明神の定められた必要十分なる禄以上のものを欲した。まあ、言うなれば稲荷大明神の神使いの中の異端児であった。お主は自ら神使いの象徴である宝珠(ほうしゅ)の玉を捨て、彼の稲荷大明神の御本社を抜け出るや、棲み処の穴も定めぬ野良狐となり、あの山この山を彷徨い歩いたそうじゃの。そのうち大悪党の大虎金眸に出会うや、奴の髭の埃を払うような見下げ果てた邪な心を持つ太鼓持ちとなり、己が強欲を満たすため、阿(おもね)り諂(へつ)いを身上とするばかりかそれを更に逞しうし、正に虎の威を借り、数多の獣たちを害せしことは世の周知の事実。その積もり積もったお主の罪は建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)とお妃の八坂刀売命(やさかとめのみこと)の知らしめ御座すあの荘厳なる諏訪の湖よりも深く、また那須ヶ原よりもまだ広い。お主はただの野良の悪狐となり果てたが、大望はもしやあの那須ヶ原に殺生石となったあの九尾の狐の如く、変幻自在、妖力を扱い悪行を尽くす老狐となることを夢見たのであろうか。中二病を煩ったな。しかし、その結末は妖狐とはほど遠く、金眸などに取り入って、荷車から魚をこそ泥し、それを上納するような低俗な輩となり果てる。所詮妖狐となるその器量は持ち合わせておらなんだった。それが証拠に見たところお主の尻尾は未だ九つに割けず、印度・中国・日本の三国を自由自在に飛行できるような神通力も持ち得ておらぬ故、こうして終には愚鈍にも狐罠に掛かり、今よりこの野の露と消える運命となった。左様、お主はこの運命から逃れられぬ、ただの平凡な狐に過ぎなかった。平凡にも拘わらず誇大妄想に浸り、傍若無人な振る舞い。折角もって生まれた他より秀でた頭の回転を、大悪のために用い、あるいは大悪より利用され、多くの無垢善良なるものを罠に陥れ搾取し苦しめた。そして悪の世界の仁義にのめり込み、正義の鉄槌からも、悪の落とし前からも、どちらからも処罰や処分や刑罰を受けることを怖れ、逃れ回りながら暮らして来た、結局は我が儘で、弱虫で、他から与えられた仕事に精進するが、それ以上のことは何ひとつできぬ、組織の上に永遠に立てぬ、舎弟働きしかできぬ、平々凡々な能力しか持たぬ、ごくごく普通の小者。お主、大きな考え違いをしたものよな。それもこれも、何もかもがお主の免れ得ぬ因果応報。ここで潰えるお主の運命は最早如何ようにも変えることはできぬ。潔くそれを受け入れ覚悟をしその処遇を受けよ。畏くも慈悲深く狐を守るかの稲荷大明神の御恩を蔑ろにし裏切った結果、お主が受ける冥罰のほど、如何に恐るべきものであるか今ここにそれを思い知るがよい。」

 文角は聴水に平凡なものが自分の能力以上の大望を持ち、我欲に基づく誇大妄想や実力無視の空威張り・調子乗り、そして知恵や器量や財力を越えた分不相応なことをしているそのうちに、次第に大悪に引き寄せられ、朱に交われば赤くなる、すなわち悪に取り入れられ、終にはその舎弟扱い。さすれば大悪に小悪の我欲など良いように利用され、小間使い、上納の強制、そのうちに大悪の維持のため費い切られれば何の未練もなく屁とも思ず切り捨てられてしまうということ、そしていくらでも替わりがある小悪の小者どもの間での無益な権力闘争、無駄な寵愛の争奪戦のこと。さらに大悪の手下になって以前にも増して苦しめ搾取した無垢なものたちからの恨みを買い続けるということなどなど、誤った人生観を持ち、大悪の手下になることでもたらされる罰の話をした。続けて、

 「しかれども、おい、聴水、よく心して聞けよ。過ちては則ち改むるに憚ること勿れ、という諺がある。また口称念仏、末期の念仏の一声、最期の最期に仏の名号を声を発して称えれば、それが諸仏に聞こえ、如何なる罪障をも消滅させることができるとも謂う。お主、今ここに、これまで行ってきた積悪の罪をすぐさま悔いる気があらば、速やかに心を素直にし、我等の問いに赤心にて嘘詐りなく潔く答えよ。既にお主も知っている通り、年来我等は大悪金眸を仇とし、その命を狙っておる。その機会を見つけ、準備整わばいつでも奴の根城に討ち入り、彼の髭の生えた首級を得んとす。しかしながら如何せん、彼奴の棲む奥山は路が峻険にして、案内なく入らば、如何なる罠、如何なる仕掛けが待ち受けるやも知れぬ。また案内なきものが入るは自ら死を求める如き無謀なること。さてそれをもし運良く切り抜け、更に幸運にも金眸の棲み処を見つけることが出来、さて討ち入らんとても、洞が中に如何なる猛獣がその側に配置され、また如何なる備えがあるかを知らざれば、返り討ちに合うのも必定。そうならぬためにも、わしは、これまでさまざまな獣からの噂話、体験談その他ありとあらゆる情報に接し、探りを入れて来たが、遂に金眸が内情、備えを詳らかに知ることはできなんだ。それ故討ち入りを今日まで逡巡し行わずに来たのだ。そしてある時からこう考えを変えた。いつの日かまずはお主を何らかの方法で捕らえ、訊問し、金眸の洞の情報を聞き出すのが最善。もしお主がその時正直にありのままその様子を話さぬというのであらば、正直に話すまで殺さず生かし、拷問に掛け糾問し、彼の備えの全容を暴き出さんと、ずっと考えておったのだ。よいか。そういう次第であるから、わしはお前にこれから金眸の洞の様子、配下の構成と員数、各部隊の頭目とその力量、各自の腕前とその練度、、武器武装の量・質、罠、仕掛け、要害の構成、配下の守備、洞までの道程と路程、道辺の目印、標、伏兵の置き場所、山砦の位置その他について聞き糾すから、詳しく語り聞かすがよい。よいか。もう一度言うぞ。お主はこのようなこととなり、今正にお主の命運はここに尽きる。最期の時を迎えるに当たり、神を信じ、仏法僧を敬い、正直となり、その時に称名の機会を得たいとあらば、必ずその思い神仏に通じお主は安らかに冥土に向かうことができよう。しかし、わしよりこのように聞かされたにも拘わらず、なおも大悪党金眸への忠節と忠誠の誓いを破らず、正義を軽んじ悪に荷担し、己が強欲と捻くれた意思の揺るぎなきを信じ、我等の問いに正直に答えず、また真実を語らず、虚言を以てして我等を陥穽に落としめようなどの魂胆が見え、あるいはそのような態度をしようものなら、その時こそ、我等三匹にて替わる替わる、お主の急所を外し、長く生きさせながら、角に掛け、牙で裂きなどして我等の思いのままにお主の生命を扱い、必ず死が訪れる時の中で、痛みと苦しみ、そして死に長く真向かわねばならぬその恐怖を十分に味わいながら、戻れぬ道のない死というものが如何なるものかをじっくり考える時を与えてくれよう。しかし、もしこのような憂き目を見たくなくば何もかも包み隠さず正直に話すこと。最早それしか己に残された道はない。また、もし正直にありのまま白状するのであらば、お主が何も苦しむことなきよう、できるだけ速やかに一思いにその命を奪い、楽に死ねることを約束しよう。いずれにしてもお主はここで死ぬことからは逃れられぬ。お主が臨終の一言、念仏を口に出して称える機会があるか無きかもそれはお主自身が決めること。その機会があらば、それによってその瞬間お主は地獄へ行くか極楽へ行くかお主の行く先が決まることであろう。どうだ。わしの言ったことを信じ、情けを受けるを恥じず、正直に白状し、感謝しつつ、仏の名を称えているうちに気付かぬようふと身罷るか、それともわしの言うことなど鼻にも掛けず、白状するなど以ての外、最期の最期まで我等に敵対し強情を張り、掛ける情けなど無用と鼻で笑い、感謝するぐらいなら金眸に忠節を誓う方がまし信じて、苦しみながら殺されるか。さあ、さあ、どちらを選ぶ。とくと思案してから返答せよ。聴水」

 と文角はあるいは威し、あるいは賺し、知識と知恵と経験と言葉を使い尽くし、情けを以て聴水に言い聞かせた。文角の話を聞きながら聴水は何を思ったのであろう、両目より涙が溢れ出し、それは止めどない流れとなり聴水の頬を濡らし伝った。

 「ああ、俺は間違った。俺は自分を偽って暮らしてきた。確かに自分の力ではなく、いつもいつも神仏かあるいは誰かの手下になって暮らしてきた。誰かの上に立って道理に基づいて命じたことなど一度もなかった。常に行うことは上から命じられるか、そのご機嫌を取るための謀略や儲けの話ばかり。金なり、腹の足しになるなり、地位なりが得られるかまたは得になること以外は一切考えたこともなかった。いや、一文にもならぬつまらぬ話と蔑む一方、無垢なる正直なただ平平凡凡と生命を送っておる純粋なる者たちを馬鹿にし、食い物にして、そこから騙し取る利益を上納しておったのだ。しかし俺が手に入れられるものは、上のものの食い残したもの、あるいは投げて寄越されたものの程度。しかもただもらえたのではない、もらえたものは恩として押しつけられたものであり、必ず報恩を義務づけられた。俺の得られたものなど何もない。自ら得たもので豊かな思いなどしたこともない。他のものの前でものを言うときは、必ず神仏か親分や大王の名を我の名など申さず声高に伝えるだけでよかった。己の名などでは誰も聞いてくれなかったし、俺などはただの下僕にすぎなかった。俺だけでいると、<ああ、あの大王の…>と小声で噂されるだけであった。俺は上納した上でただただ権力者の髭の埃を払って、胡麻を擂っていると、機嫌のよい時に小遣いを僅かに貰えるだけであった。ただ一方、支配されている弱き者の前では、たとえば神仏や大王の看板を掲げ、その下にふんぞり返っていれば良いだけであった。ああ、俺は間違った。俺は自分を偽って悪のために暮らしてきた。俺は実は善のためには何一つ行ったことがないのだ」

 聴水はこういうと、涙を流しながらもややきりっとした顔付きになってこう続けた。

 「まさにこれよりこの野の露と消える我が命。これは最早潔く覚悟した。もうじたばたはせぬ。金では計れぬ道理というものを極められた文角殿。これほど中身のあること、貴きことを、一文も請わず、また一粒の喜捨も何も求めず、このように最早命を無くそうとしているものに…。しかも俺は嘘つきで泥棒…。ただ俺は、俺の得るものをただ上納してきただけのこと。<あの狐め、己のために良い儲けをしているな>というように世間には見られながら、実は己のままにはならぬ。子分の立場の身ゆえ、何を隠そう無一物。さらに我がこの後身罷っても黄金殿の父君に咬み取られた短い尾、年老いて所々抜け落ちた毛皮、死んでも一文にもならぬ。こんな聴水と知りながら、文角殿は、惜しむことなくただ赤心と情けのそのありったけを尽くして我に語り聞かせてくれた。この文角殿の無量の慈雨の如き金言の数数は、聴水、この世に生まれこれまで過ごして来た幾星霜、その間にこのわれ聴水の我欲がもたらし続けた迷夢、誇大妄想を今ここで払い去り醒ましてくれた。今宵今ここに文角殿より話を承り、今まで重ねた我が身の罪障を思い起こせばそれは空恐ろしいこと。よくもこれだけ、これ程の悪事悪行を重ねてきたものであった。ともあれ文角殿、お主の赤心籠もった言葉に苛まれ、我と我が身が犯した罪の重みを知るに至った。さてここで願う。我が一生の想い出として、どうかこの聴水にこれより暫し話をさせてもらいたい。どうか黄金殿も我が最期の話を聞いてくれぬか」

 と言いながら、先程文角に罠をいくらか緩められたので、前より少し楽になったのであろう、咳(しわぶき)を一つした。そして苦しげではあるが、ほっと息を吐くのだった。

14

<14-1 朗読>

 「ともあれ文角殿、お主の赤心籠もった言葉に苛まれ、我と我が身が犯した罪の重みを知るに至った。さてここで願う。我が一生の想い出として、どうかこの聴水にこれより暫し話をさせてもらいたい。どうか黄金殿も我が最期の話を聞いてくれぬか」

 悪狐聴水はひとしきり文角の話を聞くと、その話を了解したように見えた。そして涙を流してこう言いながら、咳(しわぶき)をして、ほっと息を吐いた。黄金丸の義父・牡牛の文角は、どうやら聴水に話が聞き及んだようであったので、引っ掴んでいた聴水の襟髪の力を少し緩めてやった。しかし、大人しくなったとは言え、身柄を確保しているその狐は、まさにあの老練の古狐聴水。些かでも油断をすれば、弱ったふりをして隙を探し、罠から逃がれられぬふりをしながら罠を外し、機会を窺っては、一点の隙を目聡く見つけて脱兎の如く逃げ去るくらいはお茶の子さいさいの奸知に長けた老獪な狐である。それを重重承知している文角は、首に掛かっている罠紐の締め具合や抑えている首根っこの力をゆるめてやったものの、逃げられるほどには緩めず、また必要以上の情けは無用の相手とて、警戒しながらこう言った。

 「最期の話を聞けとな?言いたいことがあらば速やかに言え。この期に及んで、我らを欺き、我の情けを更に助長し、それを利用して、手を一瞬でも緩めるような隙あらば逃げんとしても、お主のその手にどうして乗ろうものか」

 文角がこう言うのを聞くと、聴水は頭を横に振ってこう言った。

 「いやいや、もう騙しはせぬ、文角殿。お主がそう疑うのも尤もである。俺はこれまでそうして命長らえて来たからな。だがな文角殿。俺はもう今までの積悪を悔い改め、悪を行って他を苦しめ、楽をして利を生んだり、苦しめた相手を嗤って馬鹿にしてきたことなど、自分がこれまでやってきたことに嫌気がさして、心を改めた。したがって、旨いことや同情を誘うようなことを言ってお主らを欺き、隙あらば逃げようなどということは露ほども考えてはおらぬし、最早そのような卑怯な振る舞いはせぬ。だから安心して手を緩めよなどとも言わぬ。疑われるくらいなら、さっきのように締め上げて貰っても良い。それにしても黄金殿、お主は何故そこまで回復したのか。身体に何の支障もなさそうではないか」

 と聴水は黄金丸の全身を眺め回すと、不審気な顔をして尋ねた。そんな聴水の態度を見て、黄金丸はあざ笑ってこう答えた。

 「お前にはまったくもって嵌められたものであった。あの日、お前の策謀とは知らず、お前を追い、人の住まいに闖入した時、家人の大男に棒で酷く撲たれ、半殺しの目に遭い、傷んだ体をさらに荒縄で縛り上げられ、裏庭の槐(えんじゅ)の木に繋がれた。幸いにも夕刻であった由、その日は繋がれたままで済まされたが、翌朝には殺されて皮を剥がれるところであったのを、ここにいる鷲郎に救い出され、危うかった命を辛くも拾ったのだ。その時、打たれた右前足は酷い骨折で、助け出されてから暫くは歩くこともままならなかった。だが、ああした酷い怪我も朱目の翁の秘薬の効果覿面。こうして元の姿に瞬く間に戻ることができたのだ」

 と言うと、満足な四足で足踏みして見せた。耳を澄まし話を聞きながら、それを眺めていた聴水は、黄金丸の話を途中で遮ってこう言った。

 「いや、そうではないんだ、黄金殿。お主があの時、人に棒で撲たれ足を挫かれる重傷を負ったということは、俺は密かに情報を得て知っておった。だから、そういうことではなくてだな…。俺がさっき尋ねたのはだな、う~む…」

 聴水は黄金丸が体は大きく一人前になっているものの、話の内容や態度はまだまだ幼く、相手の話もよく聞けず、自分勝手なとんちんかんな受け答えをしているなと思った。なぜなら、聴水の尋ねたかったのは昨日、黄金丸が朱目の翁の庵から木賊ヶ原を通って寺に戻る途中で身に降り懸かった筈の大事件のことであったからだ。

 「いやな、俺が野菊の原で昼寝をしておった時、偶然お主に出くわして、名乗りを上げられたあの日以来、俺はお主に仇として付け狙われているということが分かったので、そういうことであればいつまた何時お主に襲われ、わがこの命を失うやも知れぬ。こうして付け狙われておっては枕を高くして眠ることもできぬで。俺としてはとにかくお主を亡き者にしなければ、安心して日々を過ごすこともできぬ、と、まあ、ああだこうだと思いを巡らしておった。やられる前にやる、俺の方も命が惜しいでな。であるからお主に先制攻撃を仕掛け、返り討ちにせねば安心できぬから、それができるその機会を俺の方も狙っておったわけだ。そんなことも知らずお主はただただ自分が壮健であらば、己の力で俺を亡き者にできるからと、自分の怪我を治し、己の仇討ちを成就させんことばかりを子供らしく考えておる。お主は怪我をしてもまだ分からぬのか、ま、それはいいか。それはもちろん、つまりすなわちだ、お主と一対一であれば、俺は必ず負ける。しかしな黄金殿。負けると分かっていればな、負ける方もただ負けていないのが世の常。負けぬよう、勝つためにはどうすればよいかを考える。指を咥えて首級を差し出す馬鹿もおるまい。こちらも命懸けであるからな。だから相手の反撃のことはすっかり忘れて、己の力を過信してはならぬな。俺が仇だからといって、弱い俺だけが相手とばかり高を括っていたから大怪我をしたのだ。物語や狂言や何かでは
 <卑怯だぞ、一対一で勝負しろ>
などと言う格好の好い台詞を聞くが、命の掛かった合戦の場を知らぬ都の物書きや何かが、邸の文机の前にでも坐り行燈を立て筆を舐め舐め、ああだこうだ想像して、そんなことを書いたり言ったりしておるのであろう。本当の戦場で長年生き抜くのはそんなに甘いものではない。この歳になってあの百戦錬磨の老虎金眸のような、この世のものとも思えぬ空恐ろしい大悪に寵愛され、それなりの暮らしをしておったこの俺を甘く見ていたのではないか。それとも世の中も、戦も知らぬ…か。まあ、どちらでもよいが…。俺が誰かを雇いお主を狙わせたり、あるいは手勢を整えるなどしてお主を襲うかもしれぬなどとは、黄金のお坊ちゃまは、いや黄金殿はまあ、思いも及ばなかったであろうなあ。たとえばお主一匹だけとする、殺さなければ殺される相手が目の前におり、手下に守られておるとしよう。お主はそやつに近づくこともできず、その手下らによってたかられ卑怯なことをされながら、それらには手も上げず
 <お主らは無関係だ>
 <話せば分かる>
 <卑怯だぞ>
 なんぞと、よく本を読まれた都の御大臣のご子息のようなきれい事を言いながら、いちいち
 <我こそは>
 などと名乗りを上げ身分を明らかにして
 <正々堂々と勝負せよ>
などと仇に言っておるようなお人好し。そういう、ま、立派なものはな、戦場ではな、一統最初の総当たりでな、首を求める足軽たちの功名の的、軽輩どもの我先の槍の格好の目印となり刺され切られ、ぬはは、微塵にされてこの世にはおらぬわ。はははは。それ故、お主が今、何故ここに無傷で俺の前に立っておるのか、それが不思議でならぬのよ」

 と戦仕立てとはいかなるものかを語って聞かせた。続けてこう言った。

 「俺は、情報に基づき、兵略を立て、お主を亡きものにせんと作戦を編んだ。すなわちお主は例の足の大怪我を負っておったが、昨日その傷を治療せんとあの朱目の翁を訪れるという報を得た。俺はそれを聞いて密かに喜んだ。
 <これ絶好の機会>
とてな。そこで直ちに我が腹心の友、黒衣と申す猿に依頼をし、お主が朱目の翁を訪れる往路復路の何処かに伏兵させ、お主を弓にて射掛けさせたのだ。その後黒衣に面会すると、奴は
 <黄金丸は俺の最初の一矢にて見事射殺した>
と聞いたのだが…。何っ、ぬっ、彼奴め!さては俺としたことがあ…、あの黒衣の奴め、欺きおったのか、彼奴の猿知恵にこの俺が、まんまと騙されたのかあっ!…」

 と、聴水はここで初めて黒衣に騙されたことを悟った。これを聞いて黄金丸はからからと嗤った。そして、

 「はははは、ああ、そうか、聴水。良い気になっておると思ったが…。ははは、それを聞いて、私も漸く理解した。今の話はまだ鷲郎にも話していなかったな」

 黄金丸は聴水にこう言うと、鷲郎の方を見た。鷲郎は、
 <一体全体、何の話をしておるのだ、黄金丸>
と言おうとしている顔を満面に浮かべて黄金丸を見返した。黄金丸は鷲郎ににこっと初な笑いをかけると、再び聴水に目を移してこう言った。

 「いや実はな、昨日朱目の翁の庵から戻る途中、木賊ヶ原から寺に至る間の森を通り過ぎたのだが、獣道を行く私を狙って矢を放つものがあった。
 <やや、これは犬殺しか、はたまた村の子らの戦遊びの戯れ事か>
とて、人に射掛けられたと思ったのだが、体を返して矢柄を発止と咬み止め、そのまま射られた方向を矢柄に沿って見遣ると、そこに太き大きな松があり、見上げた辺の二股に分かれた処から射られた由。そしてそこにおったのは一匹の黒い毛をした大きな猿であった。私は
 <この猿め、私の命を狙うなど決して許し難い奴>
ときっと睨み返したのだ。するとな、その猿は俺に睨まれたからかすぐにそそくさと松の幹伝いに森の中に逃げ失せおった。しかしだ、私を射掛けたその猿に恨みを受けるようなことをした憶えは私には一切なかった。だから何故このようなことをして来たのかさっぱり理由が分からなかった。今の今までどうしても腑に落ちなかったのだが、聴水、お前が語ったことでようやくあの猿の狼藉の理由が分かった。なるほどな」

 黄金丸はこう言うと、また鷲郎を見た。鷲郎は
 <うんうん、なるほど、そういうことか。流石、黄金丸>
と言う顔をして黄金丸を見返した。再び黄金丸は聴水に目を向けると、こう続けた。

 「そういうことが昨日あったのだが、実は今日も朱目の翁の庵を訪れたではないか。そして昨日と同じ道を辿って戻って来たとき、また再び同じ処で同じ猿が隠れておってな。私を狙ってやはり矢を射掛けて来た。この度も矢は私に当たらず、私の肩口の辺りを掠めて飛び、我が後ろに生えておった木の根元に突き立ったのみであった」

 黄金丸のこの話を聞きながら聴水は歯を食いしばっていたが、悔しがってこう言った。

 「ああ、残念無念、口惜しいことこの上ない。ああ腹が立つ。
 <かの聴水>
とて古狐の中でも策謀においては天下一二と怖れられ、それ相応に知られたこの聴水が、あの黒衣のごとき山猿の猿知恵の言葉を鵜呑みにし、おめおめ欺かれるとはなあ…。ああ、何と悔しい嘆かわしいことであろう。もしや欺いてはおらんだろう、そんなことはあるまい、いやもしや万一のことも抜け目なく考え知っておかねばならぬと思ったから、夕べ黒衣の奴の棲み処をわざわざ訪ね、黄金丸暗殺の首尾と前後の顛末について如何ようか尋ねたのであったのに。あの猿めが、事もなげに
 <見事に仕止めて帰って来た>
といかにも本当らしく語ったから、俺は信じてしまった。今はたと思えば、あの時
 <黄金丸の骸は、犬殺しに奪い取られたので証拠を持ってこれなかった>
と言いくるめられたが、あれは虚の、嘘の尻尾を出さぬために仕組んだ方途であったのかあ。そうして黒衣の奴め、俺を騙しても、もし、この後、お主たちと出会うようなことがあれば、自分のついた嘘が発覚すると思ったので、今日、昨日の嘘の辻褄を合わせるために再び森に忍び、昨日仕損じたお主を狙い、射殺そうとしたのであったのか。このように思い合わせてみれば、荷車から魚を盗み、あの薮の陰で、盗んだ魚の運搬に苦慮しておった際、何かに追われてでもいるように酷く怯えている様子に見えたが、あれも、そうか黄金殿に追われた故に怯えておったのか。そんなこととは露ほども疑わず気付かなかった。ああ、返す返すも不覚であった…。ああ、これも皆、この聴水のこれまでの積悪の報いと思えば、他を怨んでみたところで何の理由にもなりはせぬ。ああ、とは言え、あの黒衣の奴さえ信じなければ今宵、今、このように捕らえられ生きて虜囚の辱めを受けずに済んだものをなあ…」

 と言うと、悔やんでも悔やんでも悔やみきれないほど後悔し、それでなくても釣り上がった目をさらに釣り上げて、煩悶していた。聴水は暫くそうして悶え悔しがっていたが、その悔しみを漸く押し殺して、心を鎮めるとこう言った。

 「ああ、どんなに後悔しても最早これまでのこと。さて斯様なことになってしまったからにはもうどうにもなるものではない。どうあっても命を失うことになった今、この期に及んでは、ただ文角殿が拙者に申し渡した通り、拙者、金眸の巣の有り様、悉く嘘偽りなく詳らかにお伝え申すこととしよう」

 聴水も悪とは言え、当代一流の狐。最期に及んではじたばたせず、潔く文角の情けにすがり、一思いにこの世を去る方を選んだ。それはそれでまた潔い姿であった。そして金眸の洞について語り出した。

<14-2 朗読>

 「まずお訊ねのあの金眸大王の洞への道程。山麓を出て、杣道を行くところ大凡二里ほどの処にある。杣道を辿ると山が迫るからその山々を越えよ、深い渓谷を次々と渉ること。越える山の数、谷の数はいちいち数えておるわけではないのでそれは分からぬ。とにかく杣道を行け。いずれにせよ杣道から山の斜面に向かって登りの間道のある分岐に出る。その間道を辿るのが金眸大王の洞のに行く近道である。その間道を行くのであらば、分岐からわずか十町ほども登れば、金眸の洞の前に出よう。さて、金眸大王の取り巻きにつき申す。大王の配下には右に羆(ひぐま)の鯀化(こんか)、左に猪の黒面(こくめん)の臣を筆頭に、それは手強き猛獣どもが数多控えておる。だが、そ奴らは皆、金眸より下された山々に封ぜられ、それを己が持ち分、己が持ち場として守っておる。金眸大王は用心深いお方。またただ一頭でもそれらの猛獣どもを統べるだけの恐るべき実力を持っておるし、またもし力あるものを身辺に置いて寝返られでもしたときのことを考え、またいざというときには急転直下の対応ができるよう、側近にはご機嫌取りで機知の利く者を少数置いておるばかり。己の洞の守りや周囲には敵に回すと手強いものとなる可能性のある手勢は集めてはおらぬのだ。すなわち山々の獣が呼び寄せるような大戦をするということならば、なかなか手強い相手。恐らくお主らに勝ち目はなかろう。しかし、山々を守る配下どもに知られぬよう、こっそりと金眸が本拠を奇襲するというのであらば、お主らにもいくらか勝ち目はある。さて、金眸の周囲に置かれたご機嫌取りとはな、則ち、俺と黒衣だ。洞の周囲に立ち入ることができるのは、則ちこの二人のみ。ははは、つまり、明け暮れ大王の近辺に侍って、大王の機嫌を取るものしか置かぬのよ。ああ、それから、最近、大王はどこからか知らぬが、照射(ともし)と言う雌鹿を連れて来て、側雌(そばめ)にしておる。その照射、容色は天下一品。かの大唐帝国の玄宗皇帝の妃楊貴妃とは斯様なものであったろう、と誰もが連想するほどの目を疑うばかりの秀麗。金眸大王もまた玄宗皇帝の楊貴妃に対するが如く照射のその美しさにそれはそれは溺れ、酒色に耽っている。ということで我と黒衣とは金眸大王の洞の中で周囲に侍っておったが、大王と照射とがしっぽりと濡れる仲となると、いよいよお人ばらい。大王の寵愛は照射に一遍に偏り、我等二匹への寵愛は日々削がれていたところ。まあ、権力者に諂うものなどはそういうもの。相手が雌であろうが雄であろうが何であろうが、寵愛を奪われると替わって寵愛を受けるようになったものを密かにやっかみ恨めしく思っていた。そこで、金眸大王からの寵愛をどうにか恢復せんと、俺は、過日、黄金殿に命を狙われ追われた日、這々の体で巣に戻ると、すぐに金眸大王の洞へ赴き、いつの日か麓の庄屋の邸を襲い、餌食にした月丸という犬の遺児(わすれがたみ)が、私と大王を仇敵とし、命を狙っている旨を報告した。さしもの金眸大王も命を狙われているという話を聞かば、それは心中穏やかではなく、彼もまた少なからず恐れてな、さっき申した右の臣の羆の鯀化(こんか)、左の臣の猪の黒面(こくめん)など重臣を呼び寄せて、洞近くに配置し、警備させるようになった。ふはは、照射め、ざまを見ろ。そして金眸大王自らも軽々しく外出せず洞に籠もるようになっておった。こうして大王の身辺の警戒は厳重で、そのままではお主らがいくら機会を見計らっても全く無駄なことであったろうよ。しかし、こうした厳戒も、先ほど、あの猿知恵の猿、黒衣が<黄金丸を弓にて射殺した>と大王と皆の前で報告した故、大王は大層喜んだ。黄金殿がこの世から消えたということであれば、最早、大王身辺の護衛は不要。ということですぐさま鯀化や黒面などで固めていた身辺警護を解いたのだ。そして今宵、お主のための宴、<黄金丸射殺を祝う宴>を催し、盛大な酒宴を張った。俺も先ほどまでその酒宴の末席におったが、我のみ早く退出し、その帰途、このように捕らわれの身となったのだ。思えば、こうなったも皆、死神が誘ったことであったのだろう」

 と金眸大王の洞への道程、位置、守備の様子、配下の配置と員数などをこと細かにぶちまけた。黄金丸は何もかも口を割った聴水の話を聞き終わると、すっくと立ち上がると、十日の月に照らされ、昼のように明るく浮き立った金眸の洞のあると思しき彼方の山並みをキッと睨みながらこう言った。

 「うん、此奴の白状が真実であれば、恐らく今夜、今頃は金眸の洞にて、金眸はもちろん、その配下の猛獣どもは酒盛りをして戯れているに相違ない。時機到来とは今宵のことであろう。いよいよ宿願が成就する時がやって来たようだ。ああ、嬉しい、何と喜ばしいことか、ああ、嬉しい。今宵、今宵だ、遂に来た。あははは、来た来た。あははは、待っておったぞ、あははは…咬んで咬んで咬みまくって、ずたずたにしてくれるわ、金眸!あははは…今宵よ、今宵。あははは….」

 と、臥薪嘗胆、雌伏の時を過ごした後に到来した絶好の機会に、黄金丸は天にも昇る心地で歓喜した。その喜び様は、端から見ていた文角も鷲郎も、そして虜の聴水も、黄金丸が喜びの余り気をおかしくしたのではないかと、ぞっとしながら訝るほどであった。その様子を見ていた聴水は更に加えてこう言った。
「うむ、黄金殿の言う通り。まさに今宵を除き、これほどの機会は永遠に訪れぬであろう。先ほど俺が大王の洞を退出した際、大王は手掛の雌鹿照射の膝を枕にし、大酒を飲んで前後不覚になって酔い潰れておった。その傍らであの嘘吐き猿の黒衣の奴は、酒を飲んで酔っ払って、一匹、ふらふらと興に乗って踊っておったわ。もう宴も終わったろう。あそこで皆で豪快に有る限りの酒を呑んで祝っていた猛獣どもも、腹を満たし、しかも大王の近辺警護の任を解かれたのだから、照射の向こう、長居はできず、それぞれの山の塒に酔っ払って戻って行ったことであろうよ。そうであれば金眸大王の洞を守護するものは皆無ということになる。また大王自身もよもや黄金殿が生きており、今宵、寝首を掻きに参上しようなどとは夢にも思わず、今頃は幸せな良い夢を見ておることであろう。先ほどは金眸大王の洞への道程を大まかに伝えたが、お主ら、俺はこれから間道より先の洞まで至る首尾につき詳細を述べるからよく聞き給え。これより討ち入りに向かうというのであらば、先ほど述べた間道を登るのが良い。少しばかり道は険しいけれど、幸いなことに今晩は十日の月、しかも空は隈無く晴れ渡って見渡す限り遠目が利くほど冴え渡っているから、間道を辿っても道を誤ることはあるまい。その間道というは、…よいか、お主ら、あれが見えるか、ほら、あそこに一叢の杉の森が見えよう。うん、そうだ。あの。そうそう。左の草山の向こう。うん。そうだ。あの杉の森の辺に小川が流れておる。その小川を渉り東へ向かえ。さすれば金眸の根城の洞。そこは岩畳が幾重にもなったところ。鬼蔓が匍い被さり鬱蒼としてしており、洞の在処は分かりづらかろうが、洞の入り口の脇に榎の大樹があるから、それを目印にし、洞に討ち入り給え」

 と先程語ったことより更に突っ込んで洞の辺の様子を詳細に教えた。鷲郎は聴水の話をじっと聞いていたが、感嘆して、口を開いた。

 「おお、まさに悪に強いものは、善にも強いという。お主は今これまでの積悪を悔いその非を認めると、我らが討ち入りのためのお主の計略を伝え教えるとはなあ。心を洗い直し善に付けば、何を隠そうこれほど忠義に厚いものであったのか。このように心を入れ替えたのであるから、俺はそなたのその善に満ちた志を愛で、お主を誑かし窮地に陥れたその黒衣という姦賊の猿を討ち取り、お主の恨みをお主に替わって雪いでやろう。お主の恨み、俺が必ず果たしてやるからな。約束しよう。遺恨は残すな。俺が片付けるから。心安らかに成仏するがよい」

 と言った。聴水は心にわだかまっていた黒衣への恨みを、鷲郎が晴らしてくれるという、聴水の気持ちを察した、温かい包むような心優しい申し出を大変有り難く思った。そうしてこう言った。

 「これはこれは有り難い仰せ。それ、正に喉に胸に支えしも、虜囚の身分立場で願い出ることもできぬものと半ば諦めてはいたが、心の中で煩悶しておったこと。よくぞ我が思いを察し汲んで下された。しかもそれを請け合うて下された。これは有り難や。ここに至って我は、最早思い残すことも言い残すことも何もかも一切なくなった。では文角殿。今度はお主が約束を果たす番。お主の言葉通り、我が喉を一思いにすぱっと咬み切り、わが命を楽に彼方へ行かせてくれ給え」

 聴水はこう言うと身形を正したいと申し出た。文角は聴水を抑えつけていた膝を離し、首に絡んでいた狐罠の縄紐を外した。狐という生き物は、覚悟が極まると、それはなかなか見事に諦めのついた潔い態度となり、じたばた騒がないというのが本性という。聴水もまたそのような性を持つ一匹の狐に戻っていた。聴水は文角の膝と首に掛かっていた縄紐を解いて貰うと、身形を正し正座をした。どうやら聴水は本心で改心したらしいと感じた文角は、引っ掴んでいた聴水の襟髪の手も離した。聴水は、

 「おお、文角殿、これは忝ない。世を知り抜いた文角殿も、我の言うことを信用してくれたか。あははは、この世の末期になって、俺はやっと誑かしや、嘘、自己撞着を含まぬ言葉が吐けた。しかもその言葉を信じて、俺の体を自由にしてくれた。ああ、有り難い。文角殿、礼を言う」

 聴水は暫し自由になった襟髪の辺りを左手で扱いていたが、首を回し伸ばすと快晴の天高く上って輝く十日の月を見上げた。聴水の目にはもう涙はなかった。その両目には月が明るくきれいに映えていた。聴水はその美しい月がいかにもこの世の見納めという顔をすると、喉を咬み切られやすいように天を見上げたままの姿勢を取り、ゆっくりと目を閉じた。すると誰か親しい懐かしいものが訪れて来た時にするような何とも言えぬ幸せそうな至福に満ちた顔をした。口角を僅かに上げると、ほんの少し口を開いた。その顔は優しく、少しく笑っているように見えた。そして口の中で何かを呟いた。何と言ったのか、それはそこにいる誰にもはっきりとは聞こえなかった。

 聴水がこうしている間、黄金丸は文角の顔を見た。文角は黄金丸に
 <よし、もちろんお前に任す。今こそまずはお前の小なる恨みを晴らす時だ>
と無言で頷いた。黄金丸は鷲郎を見た。鷲郎は黄金丸を見ると
 <いよいよだな、黄金丸。まずは小悪より。さあ、果たせや…>
とやはり無言のまま頷いた。黄金丸は空を見上げた姿勢で正座し目を閉じている聴水に言った。

 「聴水殿。仇ながら天晴れな御態度、感銘仕った。さて、お主と文角主との約束、この黄金丸があい替わって執り行わせてもらう。父の仇、母の願い、阿駒の思い。今ここに晴らし、果たす。いざ、御覚悟!」

 と、聴水の受刑の態度を讃え、この私刑の正当性を宣言しつつ、別れの一声を掛けるや、鍛え抜かれた真っ白な牙を反らすと聴水の喉元に閃かせた。その時、聴水が声らしきものを出して何か称えたように三匹には聞こえた。黄金丸が聴水の喉笛を咬み切ったのはその声らしきものが聞こえ終わった次の瞬間であった。

15

<朗読>

 黄金丸には追い求める仇が二匹いた。大虎金眸と悪狐聴水である。そしてようやくその晩、黄金丸はまずはこの仇の一匹、聴水を見事討ち果たしたのであった。

 聴水を咬み殺すと、黄金丸のその喜びようといったらなかった。聴水を討ち取る前に、聴水から金眸の根城の洞の位置と最新の金眸やその手下の情報を手に入れた黄金丸は、普段から並々ならぬ勇気のある猛犬であったものが更に勇気十倍となり、すぐに残りの仇、金眸を討ち滅ぼしにその根城の洞へ向かおうと、せわしなく討ち入りの用意を始めた。黄金丸は支度が済むや、同志で義兄弟の白犬鷲郎と、養父の牡牛文角とともに、先に聴水から教わった路をひたすら急ぐのであった。

 金眸の洞へ討ち入りに向かった三匹は、やがて山の谷間に出た。ここから山はいよいよ峻険となり、行路もその厳しさを増した。路の左右には茨や野薔薇が生い茂り、路の上に覆い被さり、その行く手を遮った。また山は松柏などの常磐木が生い茂る原生林。今宵は十日の月にして、また空は隈無く晴れ、昼間のように明るいのだが、この路はこうした常磐木が路の上高く生い茂り、暗闇の中を行くかのようであった。

 こうして足下も見えないような中を三匹は進んで行ったが、路は更に峻険になり、杣道とは名ばかりの樵さえも滅多に通らぬような様相を呈して来た。道幅は一匹がやっと通れるほどしかないばかりか、山腹を巻くような桟道、すなわち谷側は足下より急峻な断崖となって落ち、遙か下の急流が月の光を浴びて青白い銀線のように輝いて見えた。すなわち一歩間違えて岩にでも足を取らるれば、千尋の谷底までそのまま真っ逆さまに転落するような処であった。

 鷲郎は元来猟犬であったから、このような険阻な路は慣れたもので、

 「かかる処は俺が案内しよう。俺の歩む通りに歩めば良い。何の苦もなく通れるから」

 と言うと二匹の先に立った。鷲郎の注意を受けながら険しい処を一足ごとに運び、漸く通り抜けると谷に入った。路は谷筋に沿って山頂に向かって伸びていた。三匹は時間を取り戻そうと先を急いだ。暫く行くと路は谷筋から離れ、小尾根を乗っ越すと主尾根となり、それを辿ると森林限界に近いらしく、もはや岳樺といった大木もなく、背の低い灌木や熊笹ばかりが生えた場所に出た。そこは山の頂きと頂きを結び合う主稜線のようであった。主稜線には背の低い熊笹を主に、草しか生えていなかった。この笹山はどうやら先程、聴水が指し示した杉林の手前の草山と言った山のようであった。

 笹山には三匹の目を遮るものは何もなかった。十日の月明かりが天穹を満たし、世界を隈無く青白く照らしていた。遙か遠くの山々は雪を戴いた高い山並をなし、その山並の斜面の残雪が月光に銀色に輝いていた。この主稜線は左右の谷への傾斜も緩やかで、背の低い熊笹が凪いだ大海原のように一面に広がり、月明かりに白く輝き、緩やかな風に僅かにざわざわざわめいていた。ただ熊笹を分けて刻まれた路だけが月の光が及ばぬ闇になっていて、あたかも一筋の黒い綿糸を伸ばしたように遙か彼方まで延々と続いていた。鷲郎と文角はその美しさに少し見とれていたが、黄金丸は景色など目に入らないらしく、その黒糸のような路をかさかさ音を立てながらただひたすら急ぎ進んで行く。黄金丸の姿が笹原の中に見えなくなってしまった。ただ黄金丸が進んでいるらしい辺りの笹がゆらゆら揺れ動いているのが見える。はっとして景色から目をそらすと鷲郎と文角の二匹は、先を行く黄金丸を見失うまじと、急いで後を追って、ざっ、ざっと笹原に入った。三匹が急ぐその路はしっかりしており、思わぬ陥穽も隠された倒木もなく歩きやすかった。しばらく行くと尾根は下り始め、高度を落とした。熊笹は切れ、岳樺の森を抜けると、松の木が生え草が生い茂る低山の山道になった。

 その時である。金眸の洞を目指し山道をひたすらを行く三匹の前の路傍の草叢から、ふらっと出て来て、鷲郎の前を横切るものがあった。鷲郎はそれにはっと気が付くと、

 「そや、彼奴!各々方、御注意召されよ!伏兵がござる由」

 と抑えた声で二匹に情況を伝え、身構えた。黄金丸と文角は飛び道具や槍の攻撃を警戒して中腰になるや、道の傍らの溝にさっと体を潜めると油断無く周囲を見回し、鷲郎の掩護に回った。

 鷲郎は路上に残り、最大限の警戒をして、そこに現れ出たものをキッと見遣った。路傍より現れたのは、大きな黒い猿であった。顔を見るとその顔色は蘇芳(すおう)の煎じ汁で染めたような黒みを帯びた紅色をしていた。酒に酔った人間のように千鳥足で黄金丸らが向かおうとする方へふらふらと蹌踉(よろ)めいて行く。そしてそこに生えていた太い松の木の幹に縋(すが)り付くと、その松に攀(よ)じ登ろうとした。猿はどうやら黄金丸ら三匹がやって来たのに気付いて、逃げようとしているようである。しかし、どうした訳か攀じ登ろうと焦っているようではあるが、どうにも登れない体であった。少し登っては滑り落ち、滑り落ちてはまた登ろうと何度も何度も繰り返している。鷲郎はその猿の方に警戒しながら近づいて行く。備え良き場所を見つけると鷲郎はそこに身を潜めた。鷲郎の合図で、黄金丸と文角が続いた。三匹は腰を低くして猿の様子を窺った。鷲郎は黄金丸に向かって小声で囁いた。

 「どうだ、黄金丸。あれが見えるか。あそこに猿がおろう。あの様子、どうやらあの松の幹に登ろうとして、頻りに焦っているようであるが。もしやして、あの猿、例の黒衣ではないか。どうだ」

 と、松の木の下で木に登ろうとして必死になっている大きな猿を指さした。黄金丸は鷲郎の指し示す先の猿を見て、答えた。

 「あの様子を見たところ、見紛うことはあるまい。お主の言う通り、あれは黒衣に間違いない。彼奴、松に登ろうとして登れぬようだな。思うに金眸の洞で、大酒を呑み酩酊しておる故、ああしておるのであろう。引っ捕らえて訊問したら、洞の中の最新の様子を聞き出し、知ることができようか…」

 黄金丸がこう言うと、鷲郎は、

 「うん、奴が紛うことなく黒衣であれば、まず俺が行って奴に咬みついてやろう。俺は、先程のあの聴水との約束を果たさなければならぬでな」

 と黄金丸に言うと、間髪を置かず身を起こすと、さっと走り出て、松の根元で藻掻いている黒衣を目指し一目散に向かった。鷲郎は黒衣の間近に仁王立ちすると、

 「おのれ、黒衣。逃げようとせしか。逃げんとしても決して逃がしはせぬ」

 と、一声高く吠え掛かった。鷲郎に咎められると、黒衣ははたと地面にひれ伏して、熟柿のような酒臭い息を吐きながら鷲郎にこう言った。

 「これはこれは、どちらの御犬の御殿様で。某(それがし)のような汚きものに何か御用でござりましょうや。畏くもお呼び止め賜りましたが、某この辺りに棲む、賤しい名もないただの山猿。殿様思し召しの黒衣などという名のあるようなものではござりませぬ。ははああ….。猿違いでござりまする。ははああ….。さて、今、御殿様が御声掛けの黒衣という名、我が無二の友に左様なる名で呼ばれておる猿もござりましたが、はて今は何処でどうしておりますことか…。ははああ….」

 鷲郎の前で地に平伏しながら猿はそのように申し述べた。<黄金丸がああ言うのであるからこの猿は黒衣であろう。が、よもやそうでないとしたら…>と鷲郎は少しく迷った。鷲郎の後を追って黄金丸は鷲郎の背後に立った。黄金丸は鷲郎の前に平伏して申し述べる猿の姿を見ながらその話を聞いていたが、話が終わるや、からからと嗤って、こう言った。

 「はははは…、おい、黒衣。聞いている方が恥ずかしくこそばゆくなるようなそんな下手な田舎芝居は打つのは止めよ、止めよ。みっともない。お前、酒を呑んでそんな赤ら顔をして惚(とぼ)けたことを申し、お前の顔を知らぬこちらの詮議を躱(かわ)し、そのまま何処かへ姿を眩まそうと企てているようだが、私はまさかお前の顔を見忘れなどせぬわ。吾こそは昨日木賊ヶ原より荒寺に向かう森の中にて、お前の弓を以て射られんとした黄金丸にあるぞ」

 とそこに平伏している黒衣を罵った。するとその黒衣は黄金丸が言ったことにさも心当たりがないというような惚けた顔をしてこう答えた。

 「はてさて、御殿様。黄金様、いや白銀様と仰せられたか…。何やら某を御存知あるかのようなことを仰せになられますが、某は一向に殿様に見覚えがござりませぬが….。一体全体何のことでござりましょう。いやいや、黄金様、いや白銀の殿様方が、この山に鉄(くろがね)を掘りにお越しになられたとしても、この山は銅(あかがね)さえも出ぬような処ござりますがなあ。…ははああ」

 と、それは見当違いと言えばよいところを、わざわざ洒落を加えた難解な言い回しをした。相手の劣等感を引き出させしめ、知的関心を以てその興味を誘い、話に引き込み、乗らせ、言い回しを以て楽しもうと話を差し向け、最後には相手より知的であり知識あるものであるかのように嘘や方便を巧みに話に取り入れては、あたかも見てきたような嘘をつきながらそれが本当の如く振る舞い、また本人も本当と信じてしまうほど巧妙で、そのうちに相手を錯覚させて尊敬させ更には信用させ、真実をはぐらかしながら美味いところを得ようとする世渡り上手、口八丁手八丁の天性の能力が、酔いに任せておるものの言語明瞭なれど意味不明な複雑な言い回しをさせたのだった。

 「酔っ払いの戯言を真に受けたり、問答をなすは無益。時間の無駄。ただ一咬みするのみ」

 と鷲郎が言うと、黒衣は慌ただしく松の木の幹に縋り付いてこう言った。

 「これは何と御情けのすこぶる薄き、ご無体なことを宣われる御犬殿でございましょうや。御殿様はまさか御存知ない筈もござりませぬが、某の遠き先祖は巌上甕猿(いわのえのみかざる)でござります。御殿様の御先祖(とおつおや)様の文石大白君(あやしのおおしろぎみ)と共に、肩を並べてかの桃太郎、桃太郎子(もものたろうのいらつこ)様に従って、淤邇賀島(鬼ヶ島=おにがしま)に荒き海を舟で推し渡り、島の鬼を退治するに、吾が巌上甕猿、並びに御殿様の文石大白君、相協力し、桃太郎子様へのその軍功は決して少なからぬものでござりました。それ程仲良くしておりました吾ら猿属と犬属、はてさて、何時の日からでござりましょう、お互いに次第に疎通を欠き、いつの間にやら互いに牙を鳴らして啀み合う、いわゆる犬猿の仲となってしまいました。某はそのこと、実に永きに亘り本来あるべき様ではないと不本意に思っておった次第でござります。そういうことでござりますから、某はこれまで常に御殿様方御犬殿を貴び、いつかその機会があればよしみを通じ、仲良うしたいなと思い続けていたのでござります。従いまして御犬殿に危害を加えようなどとは爪の先の垢ほども考えておりませなんだ。にも拘わらず、何の罪過(とが)があって、某を咬み殺そうとなさるのでござりましょう。斯様なる狼藉、大山咋神(おおやまくいのかみ)を和魂とし、大物主神(おおものぬしのかみ)を勧進せしめし日枝山、今に言う比叡山に在りしが、更にかの伝教大師奉祀の延暦寺地主神(とこぬしのかみ)、彼の山王権現(さんのうごんげん)の祟り、なみなみならぬものと怖れ奉るべし。信仰せよ。信仰を重んぜよ。信仰なきものは地獄に落ちて、永遠に苛まれるぞ」

 と、相手を思いとどまらせたり、煙に巻いたりするためにこれまで蓄えてきたのであろう難解な言葉や地名、言い伝え、神話、神名、信仰、天罰、冥罰、仏教、神道などなどありとあらゆる知識と教養を総動員して、黄金丸と鷲郎を折伏しようとした。こうして黒衣は様々に言い紛らわしていたが、それは隙を見つけて逃げようという下準備であった。この態度とこの言い逃れを聞いていた鷲郎は、次第次第に頭に血が上り、その血は煮え滾った。鷲郎は大いに苛立って、

 「此の、悪猿めが。見た目、如何にも人に近いように見せようが獣は獣。その獣の猿が、猿のくせをしおって知識を駆使しこの場を切り抜けようと人の物真似。しかも己の命惜ししの最期の手段の懐柔策。あたかも己は獣に勝る人のようにか振る舞い、吾らを知識教養で煙に巻き、折伏し、手なずけ抱き込まんとしても、吾らはその手は先刻重重承知の承知之介。しかも斯様に吾ら、無知の田舎ものの如くに侮られ、黙って聞くも、我慢の限度も最早これまで。堪忍袋の緒も切れた。お主を捕らえ、只今の金眸の洞の様子を聞き出すという話もあったが、お前の話はてんからてんまで一切信用できぬ。しかも吾らは、とっくの昔に、悪狐聴水より聞き出し、お前の罪の深さを承知しておるのだ。たとえ、如何に言葉巧みを以てして言い逃れ、まずこの場を逃れんと謀ろうとも、吾らはいくら何でもお前の浅はかなその場逃れの猿知恵にまんまと乗り、欺かれる程までに初ではないわ。しかもお主の手に軽々と乗る程、知識や教養には偏重せぬ。また吾ら犬属、お主ら猿属が煙に巻こうとして我等の知的劣等感、知的好奇心、信仰心を導き出さんとしても、左様なことは吾らにとって然程重きをなさじ。吾らいざとならばただただ義に基づき不義に刃向かい咬むのみ。お前は嘘詐りを言い、知識や教養に疎く知的劣等感の強きもの、素朴純情無垢なるもの等を虚言を以て苦しめて来た。しかもその空言は己がためとあらば、悪とは言えお前を信じる仲間にまで向けられた。そうしてお前の嘘を真に受けた聴水は吾らの手にかかり捕らえられ死んだが、最期にはすっかり改心し、義を知り、以て成仏しおった。その際俺は聴水にお前に裏切られた聴水の恨みを必ず雪いでやると約束をしたのだ。我利のためとあらば他を蔑ろにし陥れ殺しまでするような極悪のくせをしおって、その事をもさらに空惚け、無関係を装うようなその頭が二度と回らぬように、そしてお前のそのあたかも知識や教養、教えを背景にしたかのように虚言を吐くその口が、此より後、永久(とこしえ)に開かぬように、お前のその息の根を止めてやろう」

 鷲郎はこう叫ぶと、陣風の如く黒衣に飛びかかった。もとより、この黒衣に、あの中国の西遊記に登場する猿神仙、孫悟空のような神通力がある筈もない、ただの猿知恵に長けただけの普通の猿。ましてたといいくら戦の器量や腕を鍛えていたとしても、もともと素引の精兵(すびきのせいびょう)。更に足下も覚束ぬほど泥酔しているということであれば、覚醒(めざめ)切った精兵(しらげつわもの)の鷲郎の前の敵ではなかった。黒衣の前を疾風か何か一瞬目にも止まらぬものが過ぎったように見えた。なぜなら黒衣を照らしていた月影が一瞬歪んだように見えたから。それは決して上空の松の枝葉の蔭の風に揺らぐ悪戯ではなかった。

 黄金丸はふと鷲郎の行方を見遣ると、いつの間にやら黒衣の向こう側、更に松の幹の向こう側の月明かりの中で、こちらに背を向けて片膝を突いて屈んでいる。

 黒衣は鷲郎に更に何か言い訳をしようとしたのだろう、鷲郎が今までいた、今、黄金丸のいる方に向けて赤黒い顔をして目を見開き、酒臭い口を半ば開けて一足進めようとしたその時、黒衣の首が不意にぽろりと外れた。そして地面にぽとんと落ちるや、ころりころりと坂道を下の方に転がって行った。首のなくなった体は何かから逃がれようとするかの如く一瞬踵を返そうとしたが、すぐに方向を失い宙を彷徨うと、松の根元にどうっと音を立て崩れ落ちた。鷲郎の黒衣への技を極めた正確な一撃は、あたかも旋風(つむじかぜ)の中の鎌鼬(かまいたち)の如く、さりげなくも美しく迅く峻烈で、決める時には決して迷わず、しかも仕損じることのない、決定力に満ちた見事なものであった。

さて次回第16回は、いよいよ「こがね丸」全16回の最終回。
読者のみなさん、さあ、お読み逃しあるな。乞うご期待の程。

16

<朗読>

 こうして鷲郎は猿の黒衣の首を鎌鼬のように鮮やかに咬い千切り血祭りに上げた。松の木の向こう側に片膝を突いて腰を屈めていた鷲郎は俯いたまま地面に目を遣っていた。ちょうどそこには小さな女郎花が一本咲いていた。鷲郎は少し笑ってそれを満足げに見つめていた。最期に改心したあの聴水との約束を果たしたことが嬉しかったのである。鷲郎はすっくと立ち上がり振り向くと、黄金丸と文角に目を遣りながら、そのまま前を通り過ぎ、坂道を転がって行って草叢に入って止まっていた黒衣の首を拾いに行った。鷲郎はそれを口で咥えて引っ提げると、黄金丸と文角の待っている処に戻って来た。

 黒衣の首級を咥えた鷲郎を先頭に、三匹は金眸の洞を目指し、山奥深く辿って行った。杉林を過ぎ、その辺にあった小川を渉り、東に向かうと、路は次第に細く厳しさを増して行った。そしてそのか細い道も遂に途絶えた。目前には到底登ることのできない急峻な崖が聳え立ち、足下は岩が露出し、岩畳のようになって幾重にも重なり、遠くその断崖の根に向かってずっと伸びていた。折り重なる岩畳は長年月、崖の上の、上の、途方もない高さの山頂に降り積もった氷のような雪が岩と一緒になって、雪崩となって落ちてきて打たれ続けたのであろう、手掛かりや足掛かりになるものはほとんどない程ぴかぴかに磨き上げられていた。その岩棚の上には恐ろしいほど透明な水が一面を薄く覆い、月光に照らされ、きらきら輝いて流れていた。三匹は樵さえも立ち入ったことのない、岨道はもちろん獣道さえない人も鳥も獣も通わぬ未踏の地に足を踏み入れたのだった。

 「これはどうしたことだ。路に迷ったのであろうか」

 と黄金丸が言った。三匹はどうしたものか思案して暫く周囲を見回していた。するとやや傾斜が緩く、一匹がどうにか通れるほどの広さの岩棚が続く先の方に榎の古木が生えている。その榎が月光の下に小暗い樹陰を作るその脇に、黒々と口を開けた洞があるのが見えた。黄金丸が言った。

 「さては、あれこそ金眸の棲み処であろうか」

 三匹は足音を忍ばせて岩棚を伝い洞に近づいて行った。側近くまで進み寄って洞の辺りの様子を窺うと、それはあの聴水が言った通り。周囲は岩が高く断崖になって聳えて、恰も鑿で削ったように急峻で、鬼蔦がその断崖に匍わり付いている。折柄秋深まる時であったので蔦は黄や赤に見事に紅葉し、さながら屏風に写した絵のような美しさであった。更に詳細に物見をすれば、洞の外には獣骨が堆く積まれ、月光に白々と光っている。長年金眸が餌食にした後捨てた鳥や獣の骨であろう。

 三匹は榎の木に至ると、その根方に身を隠した。まず黄金丸が洞口まで匍って行く。洞口の脇の岩に身を寄せ体をこちらに向けると、首を回し込み、洞口の角から顔を半分ほど差し出して、洞の中の様子を注意深く窺った。目の敏い黄金丸でもはっきりと様子を窺い知ることができぬほど、中は真っ暗闇であった。しかし、奥の方から大きな大きな高鼾が漏れ聞こえて来る。その音は地軸が軋んでいるのではないかと疑われるほど大きく、さしもの黄金丸も驚くほどであった。黄金丸は、鷲郎と文角に洞口に潜み来るよう手招きをした。鷲郎は猿の黒衣の首を咥えたまま、文角と無言で頷き合って申し合わせると、黄金丸の指図通り洞口へ向かった。鷲郎と文角は黄金丸と同じように、崖を背にして黄金丸の脇に並んだ。黄金丸は二匹が横に並ぶと、再び首を回して洞の角から洞の中の様子を窺った。そして首を戻して二匹を振り返ると、小さな声でこう言った。

 「ははあ、金眸め、大酒を喰らい前後不覚となって寝入ったと聴水の奴が言っておったが、奴め、まだ熟睡しておるようだな。ようし、今のこの隙を狙って洞の中に跳り入れば、たやすく金眸の寝首を掻くことができそうだな」

 そう言うと黄金丸は隣に並んでいる鷲郎と面と面を合わせた。そしてこう言った。

 「鷲郎、抜かりはないな」

 鷲郎は、黒衣の首を下に置くとこう答えた。

 「おお、俺に抜かりはない。お主もな」

 黄金丸が答えた。

 「おお、抜かりはない」

 黄金丸と鷲郎はこう言って強敵金眸を前にして、互いに励まし合った。鷲郎が黒衣の首を再び口に引っ提げると、黄金丸と共にすっくと立ち上がった。精悍で武勇に長けたこの二匹の犬は洞の入り口に立った。二匹は中に進み入ると、洞の奥へと向かうのだった。

 黄金丸と鷲郎が洞の奥に至ると、そこに、金眸が雌鹿の照射を抱き抱え、二匹諸共に岩角を枕にして寝入っていた。鷲郎は黒衣の首を洞の壁の脇に静かに降ろした。黄金丸は鷲郎が黒衣の首を置いたのを見届けると、寐ている金眸の横腹を思い切り丁とばかりに蹴り入れた。腹を蹴られた金眸は
 <ぐわおおおっ>
と一声吼え叫び、がばりと跳ね起きようとした。とっさに鷲郎は金眸の背側に回り込むと、金眸の襟髪をがぶりと咥えて洞の地面に引き据えた。横で寐ていた照射は驚いて
 <きゃあああ>
と叫び、黄金丸と鷲郎が金眸に襲い掛かっているその隙を中腰になって逃れた。照射は追われていないか確かめるため後ろを振り向きながら洞の出口に向かって小走りに走った。しかし、照射の向かう正面の洞口には、洞の中から逃れ来るものを足止めし逃走を防ぐために文角が守っていた。文角は文角の脇を擦り抜け逃がれようとした照射をその大いなる角で一気に洞の壁に突き止めた。照射は洞の壁を背に文角の角で胸を貫かれ磔られた。そして大きく目を開き、十日の月光が射し入る洞の出口を見遣ると、がくりと首を落とした。照射は文角の一撃で一瞬にして絶命したのであった。

 文角が照射を突き殺した丁度その頃、洞の奥では、黄金丸が声を振り立てていた。

 「おい、お前!金眸。耳を澄ましてよおく聞け。私はお前の毒牙に掛かって非業の最期を遂げた、麓の庄屋の義犬、月丸の遺児、黄金丸というものである。お前に我が父月丸が亡きものにされたちょうどその時、私は母の胎内に宿っていた。そしてその後、義父の牡牛文角殿より、我が父惨殺のその時の経緯を詳しく聞き知ったのだ。お前のために父月丸ばかりか、母花瀬は父の横死を苦にして病となり身罷った。お前は、取りも直さず、吾が両親の命を奪った仇。年来積もりに積もった吾が遺恨の牙先を、今こそお前の喉笛に放って討ち殺してくれようぞ。さあ、今こそ思い知るがよい」

 と、黄金丸が名乗りを上げると、鷲郎に洞の床に引き据えられていた金眸はあたかもこの世のものとも思われぬそれはそれは恐ろしいものを見ているように目を見開き、黄金丸を見上げながらこう言った。

 「お、お、お前は昨日、猿の黒衣の弓であの世に行ったはずの、あの、野良犬ではないか。はっ。さては、この世に恨みを残して死に、その恨みが晴れぬゆえ、わしが酒に酔って寐ているその隙を突き、それに付け入って、わしに祟りをなそうとするのか。おおお、ああ、お前はあ、あな恐ろしや、よ、妖怪か」

 と怯えながら言った。黄金丸は金眸がそのように言うのが終わるか終わらぬうちに、冷笑してこう言った。

 「ぬははははは、愚かものの金眸めが。お前もあの猿知恵の猿、黒衣にまんまと騙されたようだな。あのような山猿の狙った矢に、この黄金丸がどうして射られ殺されようか。私を甘く見るのではない。お前の腹心の家臣、いざというときの頼みの綱、悪狐の聴水も、先刻、私の牙に斃れて最早この世にはおらぬわ。また、お前を騙したその黒衣とか言う山猿も、先程吾らの牙で咬み殺した。その証拠、ここにあり」

 と言うと、鷲郎が携えて来て先ほど壁際に置いた黒衣の首を、金眸の目の前に投げ遣った。黒衣の首はころんころんと鷲郎に洞の床に引き据えられた金眸の前に転がって行くと、その目の前ですとんと首を下にして立った。金眸はその半ば笑って熟柿のように酒臭い赤黒い皮膚をして血の気の失せた黒衣の首を眺めていたが、やがて大いに怒り出した。

 「うおおおおお、おおのおおれえええ、こおの山猿めが、目をかけて側に仕えさせてやっておったものをおおおお。このわしをい、偽りおったのか。くわあ。然なればなり。是非にあらず。おのれら、たかだかわんころどもに、この大虎、大王、金眸、討ち取られてなるものか。お前ら、悉く返り討ちにしてくれんや」

 金眸はこう言うと、強力を出して全身の毛を逆立てると、背で金眸の襟髪をがばりと咬んで抑えていた鷲郎を払い除けた。そして金眸は黄金丸を掴み咬み殺そうと真正面から襲い掛かって来た。黄金丸は金眸が振り出した両手の間をするりと抜けると、体を返して金眸の肩口に噛み付こうとした。金眸も体を返すと黄金丸のこの攻撃を透かし、咬み損じた黄金丸の太股にかぶりつこうとした。先ほど跳ね除けられた鷲郎は、黄金丸の窮地を察し
 <黄金丸を咬ませはせぬ>
とて、金眸に躍り掛かり、黄金丸を今正に咬まんとする金眸の頬肉にかぶりついた。金眸はこれにたまらず黄金丸を咬み損ねた。鷲郎の助太刀によって助かった黄金丸は、すぐに跳ね起きると、金眸の背中にひらりと跨がった。そして金眸の耳を咬んで引き千切らんとばかり左右に振り回した。耳を咬まれた金眸はその痛みに身を藻掻きながら、頬にかぶりついている鷲郎の横腹を引っ掴んで撥ね除けた。金眸は
 <あなや>
と叫び、守勢に転じると、身を翻し、洞の入り口の方に向かって少し後退りした。黄金丸と鷲郎は、逃さじとて、金眸の後退りするその後を追った。金眸が後ろ向きに洞の入り口に近づいて来るところを、洞の入り口で待ち構えていた文角が猛然と立ち塞がって大いなる角を振り立てた。金眸が洞を逃れようとして、我が近くに寄らば、角にて一撃に突き殺さんと身構えた。金眸は、

 「くそお、さては黄金丸、おのれ、加勢を連れて来ておったか。こうなったからには、この世に轟く猛虎金眸の、死にもの狂いの底力を見せてくれるわ」

 と叫ぶと、先にも増して猛り狂い始めた。その時金眸は恰も百の雷が一度に落ちたような凄まい、それはそれは恐ろしくも物凄い猛り声を上げた。その声は山谷に谺し轟き渡った。山々に棲む獣たちがその声を聞いて一斉に緊張して震え上がるのが、黄金丸にも鷲郎にも文角にも肌で感じ取れた。しかし洞にいた三匹はそんな声などにひるむような胆のない獣ではなかった。

 金眸への讐を返さんとする黄金丸、黄金丸の介添えの鷲郎、文角の三匹と仇金眸との間で壮絶な闘いが始まった。黄金丸と鷲郎と文角は、各々が長年を掛けて身に付けた秘術、早業を駆使し、右に突き、左に跳んで、金眸に縦横無尽に襲い掛かった。金眸と三匹の争いは小一時間続いた。金眸は流石の百戦錬磨の恐るべき使い手とはいえ、先刻浴びるほどに飲んだ酒で、四足が思い通りに働かなかった。襲い掛かる相手は世に名に負う猛犬黄金丸。鷲郎も並々ならぬ腕を持つ使い手。さしもの金眸もいよいよこの二匹に敵しがたく、些かひるんだように見えた。
 <や、今だ>
とて黄金丸はこの瞬間に金眸に付け入ると、金眸の喉笛を狙い、頤まで通れとばかり、全身全霊の力を籠めて、深々と金眸の喉笛に鍛え抜かれた牙を刺し通した。それを見た鷲郎もすかさず金眸の背後から、金眸の睾丸を狙って、やはり全身全霊を籠めて鋭い牙で噛み付いた。喉笛と急所を同時に咬み透された金眸は、その傷手に悶絶し、
 <ぐあああああおおおおお>
と一声大きく叫び身を立てると、敢えなくもどさりとその場に崩れ落ちた。金眸が倒れると、黄金丸と鷲郎は食らいついていた金眸からさっと離れ、左右に分かれて身構え、金眸の次の攻撃に備えた。しかし、金眸は倒れたままぴくりとも動かない。爛々としていた金眸の瞳も、次第に瞳孔が開き始め、世界のどんな獣をも屈服させたあの金色の輝きは失せて行った。金眸を討ち斃したことがわかると、黄金丸も鷲郎も心身の緊張が一気に弛み、その場にがくりを膝を突くと、暫くお互いに顔を見合わせていたが、そのまま金眸の左右にそれぞればたりばたりと倒れると、しばらくの間は起き上がることもできなかった。

 洞口で守っていた文角は、黄金丸と鷲郎の金眸への攻撃を、瞬きもせず見守っていたが、金眸が動かなくなり、二匹の犬が身も心も気力も使い果たし、へとへとに疲れ切ってほとんど気絶して倒れたところに、ゆっくりと歩み寄って来た。

 文角は金眸の傍らに立ち、その蘇生する場合を警戒して、金眸の骸のその様子をじっと眺めていた。そして警戒しながら角で突くやら足で小突くやらして骸の様子を調べていたが、金眸にはもう鼓動も息もなく、口から舌をだらりと伸ばし、瞳を開いたままぴくりとも動かなかった。それを確かめると文角は、疲れ果て気が遠くなって倒れている二匹の犬にこう言った。

 「黄金丸。仇、遂に討ち果たしたな。鷲郎殿、ご苦労であった。御両犬、その働き見事。天晴れであった」

 黄金丸も鷲郎も遠くで文角がそう言っているように聞こえたが、また気が遠くなって行った。

 文角は倒れている二匹の体を代わる代わる舐めてやり、体を労ってあげた。暫くすると黄金丸も鷲郎もようやく気力を取り戻した。文角はそれを見ると、再び今晩の二匹の働きを言葉をきわめて褒め称えた。

 黄金丸と鷲郎は骸になった金眸の首を咬んで切り落とした。そして金眸の首を文角の角に付けると、そのまま先ほど通ってきた山道を走り下って、麓の庄屋の家に急いだ。

 こうして黄金丸たちは主家に戻ると、庄屋の家の門前に打ち並び、討ち取った大虎金眸の首級を主人の庄屋に奉った。庄屋も、黄金丸が姿を消したり、文角がいなくなったことに理由があり、大概そういうことであろうと考えていたから、それはそれは大いに喜んだ。庄屋は討ち入りの次第の報告を受けると、家の小者に文角を裏の牛小屋に連れ戻させ、黄金丸と鷲郎を中庭に呼び出して、母屋の奥の間の前の庭に並んで坐らせた。暫くすると奥の間の障子が左右に開き、部屋から庄屋が廊下に出て来た。庄屋はそこに正座すると<こほん>と一つ咳払いをした。そして中庭の真ん中に坐っている黄金丸と鷲郎の二匹に向かってこう言った。

 「やあ、まずはでかした、でかしたぞ、黄金丸。また、黄金丸の義兄弟、鷲郎。各々それぞれの働き、天晴れであった」

 庄屋は黄金丸と鷲郎の働きをまず褒めると、こう続けた。

 「但し、よいか、これから私が言うことをよく聞きなさい。たとい父母が殺されたからと言って、その仇討ちをするということ。こういう私事を私刑にて解決しようというのは、いくら親子の絆や義を重んずるとはいえ、社会を騒がせたことに違いはない。またお上の詮議を通さず、自らがそれを行うなどは、お上を蔑ろにする以ての外の行状。一切褒められるものではない。そればかりか切腹、打ち首の極刑のお咎めさえも受けんことを覚悟せねばならぬ罪ある暴挙。」

 と言った。黄金丸と鷲郎は最初は少し嬉しそうな顔をしていたが、この話を聞くと顔を見合わせて、お互いにちょっと困った顔をした。庄屋はその様子を見ていたが、
 <はははは>
と笑ってこう続けた。

 「お前ら二匹は、最初に褒められたのにも拘わらず、義を行うことに罪ありと咎められたことを驚いているんだろ。ははは、いやな、俺が褒めたのは、長年月、多くの獣を虐げ殺したばかりではなく人をも傷つけ、その横暴を日々逞しくして、猛威を奮うこと目に余るものがあった、その下手人のあの大虎金眸と、その手下の参謀を討ち取ったということ。無念無垢純情に暮らす獣たちのためにその害を取り除いたこと。それから人をも襲うほど凶悪な獣がおり自由な活動もままならぬ人の憂いを払ったということ。この三つのことで俺はお前達を褒めているんだ…」

 と庄屋は言うと、また
 <こほん>
と一つ咳払いをしてからこう言った。

 「斯様なことは後々まで永代語り継がれなければならぬ勇気ある善行である。しかもこの善行、二匹が互いに協力し合って行ったということ。その為したところは数多のものどもにとってどれほど幸いを生むものとなったことか。それは計り知れないものである。従って、私怨を晴らすことで世間を騒がせた罪は帳消しにしても余りある快挙。黄金丸と鷲郎のその功労は社会にとって莫大である。よって以下の褒美を与えることとする」

 と言って笑うと、黄金丸には金の首輪を、鷲郎には銀の首輪を贈った。それは則ち庄屋の家の飼い犬になることであった。二匹はそれぞれ一代、庄屋の家の門衛として召し抱えられたのである。次いで庄屋は言葉の限りを尽くして二匹を褒め称えた。庄屋の讃辞を受けながら、黄金丸と鷲郎の二匹はお互いの首輪を眺め合うと、晴れ晴れとした顔を見合わせて笑い合った。

 荒寺を棲処とし明日をも知れず、日々の暮らしにも困り果てる浪々の身であった二匹の野良犬はこうして職を得た。また二匹ともよく仁義に通じていたので、このお召し抱えを恩に感じ、門衛の仕事を決して怠ることなく精勤し、主人や家人に忠実に仕え、獣たちからは尊敬され、人からは可愛がられて生涯幸せに二匹仲良く暮らしたとさ。

 何はともあれ、めでたし、めでたし。

<完>


こがね丸
著者:巌谷小波
現代語訳、潤色:池ノ内 孝 

| (Oct.28, 2016「雪山偈」拙訳 加筆)


「こがね丸」(巖谷小波, 1921版) オンタイム・リーディング (青空文庫) [click here! ]

底本:「日本児童文学名作全集(上)」岩波文庫、岩波書店
平成6年2月16日第一刷発行
底本の親本:「こがね丸」博文館
明治24年1月初版発行
現代語訳底本:青空文庫 図書カードNo.3546 こがね丸
http://www.aozora.gr.jp/cards/000981/card3646.html


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