「なにもない」ということ

2012-12-02_105138

youtube: “摩訶般若波羅蜜多心経 読誦 (The Heart Sutra)”


「なにもない」ということ

摩訶般若波羅蜜多心経

 観自在菩薩
 行深般若波羅蜜多時
 照見五蘊皆空
 度一切苦厄
 舎利子
 色不異空
 空不異色
 色即是空
 空即是色
 受想行識
 亦復如是
 舎利子
 是諸法空相
 不生不滅
 不垢不浄
 不増不減
 是故空中無色
 無受想行識
 無眼耳鼻舌身意
 無色声香味触法
 無眼界乃至無意識界
 無無明
 亦無無明尽
 乃至無老死
 亦無老死尽
 無苦集滅道
 無智亦無得
 以無所得故
 菩提薩埵
 依般若波羅蜜多故
 心無罣礙
 無罣礙故
 無有恐怖
 遠離一切顛倒夢想
 究竟涅槃
 三世諸仏
 依般若波羅蜜多故
 得阿耨多羅三藐三菩提
 故知般若波羅蜜多
 是大神呪
 是大明呪
 是無上呪
 是無等等呪
 能除一切苦
 真実不虚
 故説般若波羅蜜多呪
 即説呪曰
 羯諦
 羯諦
 波羅羯諦
 波羅僧羯諦
 菩提娑婆訶
般若心経

——————————————-

回向 上来、
摩訶般若波羅蜜多心経を諷誦する功徳は
大恩教主本師釈迦牟尼仏
高祖承陽大師、
太祖常済大師に供養し奉り
無上仏果菩提を荘厳す
伏して願わくは、
四恩総て報じ
三有斉しく資け
法界の有情と同じく
種智を円かにせん­ことを

<略三宝>

十方三世一切仏
諸尊菩薩摩訶薩
摩訶般若波羅蜜  

仏説

大いなる知恵ある真髄たる常住不変の義
―「なにもない」ということ

 はじめに)
  極東アジアの一民族で、漢族という大多数の無学・文盲の
 「活者 (フォツュェ=生活するために生きる者)」を支配するため、
  その為政者がその権力と意志を周知するために編み出した、
  この「漢字」という象形・指示・会意・形声文字の集合体で
  綴られたものは、一般的に、理解しにくく押しつけがましく、
  また教条主義・官僚主義・権威主義的で、折角の仏陀の到達
  した真理を有能な翻訳者をもって梵語原文に出来る限り忠実
  に訳出しようとした苦労の跡を具に感じるものの、残念乍ら
  漢文の儘では日本人には伝り難いものである。加え、訳出に
  唐以後の詩文形式を用い、中国人への布教上、詠い覚えやす
  いよう音韻化してあり、それが中国語からして外国語である
  我が日本語の音韻にそぐわないのは当然で周知のことである。
  逆に謂えば、よくも斯様なる外国語の儘、二千年に亘って
  仏法を日本国内に温存できたという奇跡と日本人の価値ある
  ものに対するリスペクトとそのまま温存しようという崇高な
  素直さに繁く関心するばかりである。しかし昨今の如く教養
  がスマホなど情報機器やインターネットの普及で、より一層
  大衆化した現代に何も難しい漢字で、太古の支那の発音を用い
  一般人が諷誦する必要はない。必要なのは意味を理解すること
  であり、それは釈尊の説法を直接聞いた仏弟子たちも、現代人
  が耳にする今この時でも変りはないと私は固く信じている。
  そこで、英主善政賢臣良民協働の地を和を以て実現しよう
  とする恵み深き四季の地に歴代在住するわれら日本人でも
  わかりやすいようにしようと試みてみた。

—————————————————————————–
求めるものの姿に応じ千変万化の相に化身し、
慈悲を施すようになったアヴァロキテスバーラもかつて、あなた同様、
苦労と災厄から離れるための奥義を修得しようと専念していたんだ。

彼もまた他の諸仏と同じく、
五蘊(物・感受・表象・意志)は「なにもない」のであって
「なにもない」のが五縕である、という本質を知って「悟入」した。

それを知ったから、
彼は、それまでいた苦厄の溢れるこちら側の岸から、
あちら側の、涅槃寂静たる極楽の岸の道
悟道に渡されたんだ。

知ったから渡されたのだよ。
渡されたのは知ったからだよ。
知らなければ、渡されないんだよ。

ボクの弟子の中で明晰さで一二を争う惣明な君、
シャーリプトラくん。
君にわかるかな。

形あること(五縕の一つの色)は、
空、つまりなにもないことと異なるところがない。
同じなんだ。
その逆に、なにもないことと形あることとは同じことなんだ。
形あることは、そのままイコール、なにもないことでもある。
逆になにもないことは、イコール、形あることでもある。
五縕の残りに受・想・行・識があるけれど、
受も、想も、行も、識もみな、何もなくてあることなんだ。

ああ、ちなみに「空」は「無」じゃないよ。
「あってなにもないこと」と「もともとなにもないこと」
これ、ちがうからね。

どうかね、シャーリプトラくん。わかるよね。

物とは、なにもないことそのものの姿容(すがたかたち)なんだよ。
生じもしないし、消え失せたりもしない。
汚(けがれ)てもいないし、清らかでもない。
増えもしないし、減りもしない。
ま、最後のは西洋の科学で「エネルギー不変の法則」と言ってるね。

なにもないのだから、色・受・想・業・識(五縕)もなければ、
十八界、即ち眼・耳・鼻・舌・身・意(六根=認識)もないし、
色・声・香・味・触・法(六境=認識の対象)もない。
眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識(六識)もない。

十二縁起の無明がなければ、始まりもないのだから、その尽きることもない。
だからこれに続く縁起の順観、
即ち、行・識・名色・六入・触・受・愛・取・有・生・老死も
最初からあってない。
故に 老死も尽きることもないから苦集滅道(四諦)もない。

こうなれば、つまり八正道なぞもない。

智もなく、また得もない。
得る所やもの・こと、なにもかもがもともとあってないのだからね。

さあ、この説法を聞いているすべての修行の身にあるみなさん。

今ムズカシイ、細かな話をしたけど、
「悟りの知恵」すなわち「すべてはなにもない」という
知恵に依っていさえすれば心にこだわりが起きない。
こだわりがなければ、恐れなどない。

一切の常・楽・我・浄の四顛到と夢想を遠ざけて、
心の安らぎであなたを極め尽くしなさい。

「悟入」して、いわゆる仏になる修行者、ね。
これは過去・現在・未来(三世)に生まれるわけだけど、
こうした諸仏も 「悟りの知恵」、
すなわち「すべてはなにもない」という知恵に依って
最上で完全な悟りを得られたのです。

だから「到彼岸の知恵」、
すなわち「すべてはなにもない」ということが
知恵であることを知りなさい。

「すべてはなにもない」 偉大にして神聖なる本当のことばである。
「すべてはなにもない」 これが明晰な本当のことばである。
「すべてはなにもない」 これがこの上ない本当のことばである。
「すべてはなにもない」 これに等しいものなど他にない最上の真実のことばなのだよ。

このことばに依っていれば一切の苦厄が除かれる。
本当だ。虚じゃないよ。疑うなかれ。

だから知恵に満ちた神髄の常住不変なる義を唱えなさい。

 (この漢文が曲学阿世の徒に利用されないように
  梵語の音写も書き加えておくね!)

さあ、本当のことばを申し上げよう。

ギャテイ ギャテイ (行者よ、行者よ)
パラギャテイ(彼岸に到ろうとする者よ)
パラソギャテイ(彼岸にすべてを打ち込んで向かう者よ)
ボジソワカ(「悟」りなさい。「悟」れますように。あなたに幸あれ)

知恵ある真髄なる常住不変の義、

即ち、「すべてはなにもない」ということを知って、
「悟入」なさい。

沢山いる仏陀の中の一仏で、シャカ族という
人たちの中に生まれて、後、悟道した
俗名、ゴーダマ・シッダールタという仏陀が
悟りをわかりやすく衆生に伝えて欲しいと
する梵天による勧請に応え、
いわゆる開示悟入に基づき述べたこと

—————————————————–

まず以上私が「摩訶般若波羅蜜多心経」音読した、
この私の為した善が翻って、あなたが悟りを開く
契機となりますよう願います。

ところで… 「摩訶般若波羅蜜多心経」を音読することで
報いられ得られる善根の功能福徳というのはですね、
この経文を我々衆生に最初に繙いて下さった、
この上ない大恩のある仏であり、教え主である、悟入し
解脱をされたご本仏「釈迦牟尼仏」、
それとわれらの道元禅師 (日本曹洞宗の開祖、承陽大師 [1879 諡号])
ならびにわれらの佛慈禅師 (曹洞宗第四祖の常済大師 )に対して
音読して、回向させていただき、最上の正しい覚知ならびに
仏の悟りに相応しい善徳を示すようお飾りしお祀り申し上げます。

ここにこの上ない宇宙に気高き徳をお祀りしたところで、
これより平伏して御願い申し上げたいことがございます。
どうぞ、どうぞお聞き届け頂き、お導きとお力沿いを賜れ
ればこれ以上の至福はございません。

この世に人が生を愛ければ、誰一人として受けぬことはない
四つの大恩、すなわち、父母・国王・自分以外の衆生・天地
(または三宝)に対してすべて欠けることなく、それぞれの恩に
すべて報いられますように

また生まれ、死に、再び生まれるという転生の中にある衆生が欲界
(淫欲と食欲の二つの欲望にとらわれた有情の住む処。六欲天から
人間界を含み、無間地獄までの世界)・色界 (欲界の欲望を超越した
ものの、物質的条件である色に囚われた有情が住む処。四禅天、
十八天の世界)・無色界 (欲界も色界も超越したものの、精神作用に
のみ住む世界で禅定に住している世界)の三界を流転し、生死を重
ねる中で、どこにいようとそれからの解脱に役に立ちますように

かくあるべき、あるがままの事理、真如の真理の前・中にあって、
感情を持つ生きものとして悟れず、解脱できぬまま輪廻している、
すべての迷える生きとし生けるものみなすべてを

諸仏が得られたあらゆるものを知る智、万有を悉く知る仏の智慧を以て、
苦難に身を置く衆生をなにとぞお見捨てなく、こうして至らぬものらを
穏やかにさせていただくと同時に、これらが悟りを得るための可能性や
契機をどうぞお与えくださいますように。またそれが種となって、
いつぞや花開き、成仏できるそのときが参りまするよう。

————————–

<誰であろうと仏法(釈迦牟尼そのものの存在)・宝法(釈迦牟尼が
衆生の悟りや解脱の可能性を残すため我々に述べてくださった悟り
と解脱のための説法)・僧法(悟りや解脱を得るために般若波羅蜜多
[奥義を修得せんとして自ら起こす苦行]にある修行者)の三宝を得る
ことができますよう、略儀にて>

全宇宙、過去・現在・未来に生まれ出でしあなた。
自ら真理の目を見開いて大世界を知りなさい。

ああ、すべてを賭して菩薩行に打ちこみ修行されているみなさん、
何もかもがすべて手に入って、得られないものは何もなく、
充たされ、満足するということは
同時に一切何もなく、一切が無為で、得るものなど何ひとつない
自己の存在をも含め、本来無一物の
すっからかんのすってんてんである
ということを悟りなさい。

さてあなたが見ている私を含めて、
私のこの説法も、頼りにする菩薩や僧侶も何もいないのです。
私がこうしてみなさんの前にあるように思えるのは、
他ならない梵天からの勧進があったからで、
あなたたちを救うために説法を残してほしい、
と頼まれたから行ったのです。
だから勧進がなければ説法もなく、
説法がなければいまこんなこと書いている人間もいないし
ここに書かれているこの言葉もありません。
あなたは悩んでいたとしても、真理とは何かを探る糸口さえなく、
また真理があること自体知る由もないのです。

あはは、あなたの悩んでいるそのこと自体も
実は空で、そういう意味で、まったくもって何もないのです。

だから死ねばなくなるだろう、などとは思ってはいけませんよ。
記憶は継続しますから、たとえ死んでもなくならないのです。
そんな簡単な方法で悟りや解脱を得られるはずはありません。
では、もしそうであったとしましょう。
さすれば、あなたという生はもちろん、この宇宙に、
あなたの目の前や周辺に生きているなにかがあるはずもありません。笑

なにごともこういうことだということを悟りなさい。
なにもかもあって、ないのだということ、
それが真理です。

悟りなさい。

▼▽▼▽▼ 掲載日 ▼▽▼▽▼  

10feb2013  
加筆:17mar2017  

誦経(reading)

maka hannya hara mita xingyo

kanjizai-bosatsu
gyojin hannyaharamita ji
shoken go-on kaiku
do issai kuyaku
sharishi
shiki fu yi-ku
ku fu yi-ishiki
shiki soku zeku
ku soku zeshiki
jyu sou gyo shiki
yaku bu nyo ze
sharishi
ze shohou kuusou
fu-shou fu-metsu
fu-ku fu-jyo
fu-zou fu-gen
ze ko kuchu
mu shiki mu jyu sou gyou shiki
mu gen ni bi zetsu shin ni
mu shiki shou kou mi soku hou
mu genkai naishi mu ishikikai
mu mu-myou yaku mu mu-myou jin
naishi mu-roushi
yaku mu-roushi jin
mu-ku shumetsudo
mu-chi yaku mu-toku
yi mu-shotoku ko
bodaisatta
e hannyaharamita ko
xin mu-keigei
mu-keigei ko
mu u-kufu
onri issai tenndou musou
kugyou nehan
sannze shobutsu
e hannnyaharamita ko
toku anokutara sannmyaku sanbodai
ko chi hannnyaharamita
ze daijin shu
ze daimyo shu
ze mu-jyou shu
ze mu-toudou shu
nou jyo issai ku
shinnjitu fuko
ko setsu hannnyaharamita shu
soku setsu shu watsu
gya tei gya tei
hara gya tei
hara sou gya tei
bojisowaka
hannnya xingyo

ekou jyourai
maka hannyaharamita xingyo wo
fujyu suru kudokuha
daionn gyoushu honshi Shakamuni-butsu
kouso Jyoyo-daishi, taiso Jyosai-daishini
kuyoushi tatematsuri
mujyou bukka bodaiwo shougonnsu
fushite negawakuha
shionn subete houji
sannu hitoshiku tasuke
houkaino ujyouto onajiku
shuchiwo madokani sennkotowo

jihou sannshi yishi fu
shison busamo mokosa
moko hojyahoromi

英文概訳:鈴木大拙

THE PRAJNAAPAARAMITAA-HRIDAYA SUTRA

When the Bodhisattva Avalokitesvara was engaged in the practice of the deep Prajnaapaaramitaa, he perceived: there are five Skandhas ; and these he saw in their self-nature to be empty.

” O Saariputra, form is here emptiness, emptiness is form; form is no other than emptiness, emptiness is no other than form; what is form that is emptiness, what is emptiness that is form. The same can be said of sensation, thought, confection, and consciousness.

” O Saariputra , all things are here characterised with emptiness: they are not born, they are not annihilated; they are not tainted, they are not immaculate; they do not increase, they do not decrease. Therefore, O Saariputra, in emptiness there is no form, no sensation, no thought, no confection, no consciousness; no eye, ear, nose, tongue, body, mind; no form, sound, colour, taste, touch, objects; no Dhaatu of vision, till we come to no Dhaatu of consciousness; there is no knowledge, no ignorance, will we come to there is no old age and death, no extinction of old age and death; there is no suffering, accumulation, annihilation, path; there is no knowledge, no attainment, 〔and〕 no realisation because there is no attainment. In the mind of the Bodhisattva who dwells depending on the Prajnaapaaramitaa there are no obstacles, and, going beyond the perverted views, he reaches final Nirvaana. All the Buddhas of the past, present, and future, depending on the Prajnaapaaramitaa, attain to the highest perfect enlightenment.

“Therefore, one ought to know that the Prajnaapaaramitaa is the great Mantra, the Mantra of great wisdom, the highest Mantra, the peerless Mantra, which is capable of allaying all pain; it is truth because it is not falsehood: this is the Mantra proclaimed in the Prajnaapaaramitaa. It runs: ‘Gate gate paaragate, paarasamgate, bodhi, svaahaa!'(O Bodhi, gone, gone, gone to the other shore, landed at the other shore, Svaahaa!)”

出所:
山田無文
『生活の中の般若心経』
春秋社、1983年、9-10頁)
http://blogs.yahoo.co.jp/solidussolidarity/19663220.html

About 池ノ内 孝    Takashi (Kou) Ikenouchi
a haiku poet (俳名:秋村 [Shūson]), an actor, pure-Japanese, Tokyo Japan

Leave a Reply

Fill in your details below or click an icon to log in:

WordPress.com Logo

You are commenting using your WordPress.com account. Log Out / Change )

Twitter picture

You are commenting using your Twitter account. Log Out / Change )

Facebook photo

You are commenting using your Facebook account. Log Out / Change )

Google+ photo

You are commenting using your Google+ account. Log Out / Change )

Connecting to %s